ニラニスタ発・蹴球思案処

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旧制韮中校歌

旧制韮中校歌

 

新人戦決勝の試合直前、何年かぶりにかつて韮高が強かった時代の雰囲気を漂わせたシーンがあった。部員全員で円陣を組み、旧制韮中校歌を歌った。『百折不撓』と呼ばれ、近年ではスタンドや応援席から、無駄に歌い散らかされている。韮高が選手権に出られなくなってから、多くの昔から伝わるものがなくなり、またはその価値が薄れてきたものがある。試合前の『百折不撓』もその1つである。僕らが受け継いだ『旧制韮中校歌』は、本当に大切な試合、ここ1番で力を発揮しなければならない試合の時だけ歌われた。僕らの時代の高校3年間では、『百折不撓』を歌った試合は、記憶に残る限り2回しかない。全国ベスト4の時代の先輩方は、国立競技場で『百折不撓』ではなく、『津軽海峡冬景色』を歌ったというから、『百折不撓』を歌うことの価値はさらに高いものだった。時代は変われど、3年間同じグランドで、同じ目標を持ってサッカーに打ち込んだ同士として、現在のスタンドで手拍子付きで歌われる『百折不撓』を耳にすると、多くのOBが違和感を抱く。だから今年度の選手権で、勝った後に『百折不撓』を宴会の時のような喜びの歌を耳にした時は、『百折不撓』の祟りが起きるのではないかと思ったほどである。後輩OBもそのような雰囲気を察したというから、少なからず違和感を抱く人たちがいることは間違いない。時代の変遷があり、韮高サッカー部の勝てない時代が長く続いている中で、現在のような状況になることは仕方のないことである。韮高では『旧制韮中校歌』を「応援歌」として定めているので、どのような歌われ方をしてもよいことになっている。そして現代は多様性の時代なので、様々な価値観を共有しお互いを尊敬し受け入れなければならない。少数派だからといってないがしろにしてはいけない時代である。極めて少数派になってしまった意見では、選手は別として、スタンドで好き勝手に歌われている『旧制韮中校歌』は耳障りにしか聞こえない。サッカーという闘いの場での『百折不撓』を歌うことは特別な意味を持つ。『百折不撓』の精神性は尊いものであり、歌わない者が手拍子をすることは『百折不撓』の品位を貶める行為である。最近は試合の度に『百折不撓』の大安売りがあり、気に障る人は僕だけではないと思っている。『百折不撓』に高校3年間の精神的な部分での自己を持つマイノリティにとっては、違う応援歌で選手達を鼓舞して欲しいと思う。部員以外の部外者は、選手達を静かに後押しすることが、韮高サッカー部のためになる。

新人戦決勝の試合前での選手たちの『百折不撓』はとてもしびれるシーンに映った。かつての強かった韮高の雰囲気が出ていたように思う。言葉は思っているよりも早く、本来の意味や使い方が変化してゆく。『旧制韮中校歌』に込められた精神性も、時代の流れに逆らえず、歴史認識を取り違えた者によって変わっていく絶滅危惧種となってしまった。