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韮崎第一高校

韮崎第一高校

 

ちょっとした用事があって、韮崎高校に足を運んだ。昼下がりの韮高で歴史と伝統について少しばかり考えた。韮崎第一高校と呼ばれた時代が2年間あった。

 

現在の韮高の校長先生は野崎哲司先生である。現役の韮高生の校長先生のイメージとしては、校長先生というのは単純に偉い人といったところだろうか。

僕が1年の時のサッカー部の部長は、野崎哲司先生のお父さんの野崎鉄平先生だった。鉄平先生は韮高サッカー部のOBである。

僕の中では鉄平先生はいつも悲しい顔をしていた印象がある。その当時は、実力があるのにもかかわらず、山梨県を勝ち抜けなかった。先輩たちが停学になったり、停学すれすれのことをしたり、あらん限りの悪事を働いていたので、大事な試合に勝つことができなかった。サッカーのことではなく、生活面においての部員の素行を目にするたびに、鉄平先生は悲しそうな顔をいつもしていた。

野崎鉄平先生は韮高サッカー部の歴史の中でも、特異な時代にサッカーをした年代であり、韮崎第一高校と呼ばれた時代にサッカーをしていた。

 

第2次世界大戦が激化し、学徒動員が発令され、昭和19、20年は韮高も例に漏れず、サッカー部員がいなくなり活動ができなくなった。終戦して1年後、活動停止になっていた韮崎中蹴球部がすぐに復活した。

 

昭和21年(1946)の入部希望者は200人を超えた。その中の1人が野崎鉄平先生である。韮高サッカー部史の中で、10人を切る学年がいたことは珍しくない。その中で200人の入部した年に卒業した部員は、戦争が大きく影響したことで、わずか1名だった。

 

翌年、昭和22年(1947)に学校教育法が施行され、野崎鉄平先生は韮崎中としての最後の卒業生となる。現在、歌い継がれる旧制韮中校歌を現役時代にリアルに歌うことができた世代である。

 

昭和23年(1948)、韮崎第一高等学校の1年生としてサッカーに専念する。新しく生まれ変わった韮崎第一高等学校サッカー部は、戦後物資が困窮し、染料不足のために緑のユニホームをつくる事が出来なかった。黄色のユニホーム、白のパンツ、ソックスが黒と黄色のタイガーだった。

韮高はそのユニホームで韮高戦後初の第27回大会の選手権に出場する。宿泊地は兵庫県宝塚の中山寺と記録されている。サッカーに関係ないことではあるけれど、この時の強歩大会は韮崎-松本である。

 

昭和24年(1949)、鉄平先生が高校2年生の時にまた変化が起こる。学制改革のために翌年より韮崎第一高と韮崎第二高(女子)を廃止し、統合するという再編成となった。ユニホームはすぐに緑色に復活する。

 

昭和25年(1950)現在の韮崎高校が誕生する。よって鉄平先生は韮崎高校の第1回の卒業生となる。旧制韮崎中学から韮崎第一、そして韮高という変遷の時代に、幸か不幸か青春時代がぴったりとはまってしまった。韮崎第一高校は実質2年間だった。

入部時に200人を超えた部員は、鉄平先生が卒業する時には、わずか12名となっていた。

 

令和の時代に戻り、ちょっと前には、コロナウイルスの影響でインターハイがなくなってしまったり、各大会が中止になったり、無観客での試合が行われたり、その当時にサッカーをしていた選手は、80年も前の戦時中と同じ経験を味わってしまった。

終戦後、野崎鉄平先生がサッカー部に入った。コロナ終焉と同時に鉄平先生の息子が韮高の校長先生に着任した。伝統は重荷でも何でもなく、「伝統は創造だ」としたら、大きな力になるのではないかと思う。韮高サッカー部は見えない大きな力に支えられていると改めて思う。今年はなんとしても選手権に行かなければならない。