ニラニスタ発・蹴球思案処

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行かふ年もまた旅人

行かふ年もまた旅人

 

2023年のサッカーがほぼ終わった。最後の最後まで驚くべき失意の1年であったように思う。無情の結末が多すぎる1年であった。同じ残り時間でも、勝っている時は終わり時間が長く感じ、負けている時は試合時間が短く感じてしまう時間の相対性について思案させられた。個人の内で生じる心理的時間の質的なもの、また非均質性は、サッカーにおいてはとても顕著である。勝敗が左右されてしまったプレーは、ほんの一瞬の出来事である。その一瞬のワンプレーが何度も蘇ってくる。過去は現在において失われたものではなく、現在の内に伏流のように潜んでいるかのようである。この1年は思い返すとそのような濃い時間が多かったように感じる。その濃い時間は楽しい時間ではなく、苦い思いが込み上げる時間だった。

 

11月下旬にACLの第2戦、VF甲府メルボルンの試合を新国立競技場に観戦に行ってきた。作為的な巡り合わせなのか、偶然の巡り合わせなのかは分からないけれど、僕の両隣の席は韮高時代の大先輩だった。40年以上も前に旧国立競技場でプレーしたことのある国立戦士だった。学年は違うにせよ、このピッチでプレーしたことのある貴重な体験を持つ2人なので、リスペクトせずにはいられない。昔は昔、今は今で、2人の大先輩はVF甲府のユニを身にまとい、郷土のチームを応援していた。

予想以上の観客で「#甲府にチカラを」に共感した他サポが、それぞれ自分のチームのユニを着てスタジアム内を歩いていた。J1、J2、J3とカラフルな色を目にすると、サッカーの力を改めて感じることができた。巨人とヤクルトのユニも目撃した。垣根を超えた後押しがあり、独特の雰囲気を作り出すことのできるVF甲府とそのサポは、器が大きく親しみを感じることができた。南米や欧州では見られることができない風景である。

 

その3日後、J1昇格プレーオフ決勝に参戦した。Jリーグが誕生する前年に、ナビスコカップが開催され、その決勝の対戦カードは今回と同じであった。リアルに思い起こすことができるその試合は、旧国立競技場で行われ清水エスパルスはカズのゴールで負けた。30年後の現在はJ1昇格プレーオフという不甲斐なくも歴史を感じることのできる舞台だった。国立競技場というスタジアムは、僕の中ではとても特別なモノであり、その積み重ねた記憶も特別なモノである。清水エスパルスは8分という長いアディショナルタイムで、最後の最後にPKで追いつかれ、J1昇格を逃した。

試合終了後の静まり返ったゴール裏では前や横や後ろから、むせび泣く声が聞こえてきた。悲しみをこらえきれずに思わず涙が込み上げてくるたくさんのサポーターがいた。悲しみに包まれるというのはこういった雰囲気なんだと二度と味わいたくない空気だった。

 

アイシュタインの名言がある。

「熱いストーブの上に手を置くと、1分が1時間に感じられる。

でも、きれいな女の子と座っていると、1時間が1分に感じられる。

それが、相対性理論です」

 

サッカーに絡めて、時間の相対性について思案していたけれど、難解で時間があっという間に過ぎ去っていく。試合後のインタビューで「ボールが止まっているように見えた」とか「敵がスローモーションのようだった」とか聞く。そうかと思えば、「前半はあっという間に過ぎた」とか「1点を獲ってから長かった」というのも一度ならず耳にしたことがある。

ここで急いで結論を出すことはない。時の流れるままゆっくりと勉強をするし、しばらく立ち止まって整理する時間もとらなければならない。あんまり良い思い出がない1年で、失意が多いサッカー年だったように感じる。

ふと思い浮かぶことは、

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり

という『奥の細道』の冒頭である。