ニラニスタ発・蹴球思案処

蹴辞逍遥・晴蹴雨蹴

雑文 23-05

雑文 23-05

 

ノルマにしていた本をあまりにも早く読了してしまったので、自らのブログを振り返る。とりとめもなく、時には勢いに任せて乱暴に、時には真剣に考え、サッカーについて思い浮かぶことをブログにアップしてきた。

「ニラニスタ」ブログが始動して3年と9ヶ月が経つ。この記事で447稿目となり、アクセス数も30万を超えている。「ニラニスタ」の前のブログでは、アクセス数とかPVとかを見ていたけれど、僕の中ではそのような数字は、いつの間に興味がなくなってしまっていて、それに加え記事の投稿数も気にしなくなった。

「韮高サッカー部を応援するブログ」を立ち上げたのが、2014年5月16日。今年で10年目となる。さかのぼること、2008年3月。ブログ黎明期の時代に、僕も時代に呼応してMIXIを始めた(現在も放置され続けている)。2008年というと、韮高が選手権に出場した最後の年であり、時代的にはツイッター日本語版が開始された年である。日記風に日常とサッカーの記録を綴るスタイルで、ほぼ写真(画像)はない。SNSにかかわりを持ってから、いつの間にか15年が経ってしまった。

 

MIXI時代では、懐かしい韮高記事があり、自分の中でも記憶にない試合に足を運んでいた。「韮高サッカー部を応援するブログ」を始めるきっかけとなった韮高-VF甲府の記事があったので、気分的に再掲する。

 

山梨県U-18ユースリーグ 一部 韮崎-VF甲府 

2014.4.12

山梨県ユースリーグ一部リーグ、韮崎高校対VF甲府U-18の試合を観戦してきました。

お互いリーグでは全勝同士。韮高は帝京三日本航空と下し、調子を上げていました。

 

前半は0-0。後半試合が動きました。CKから韮高が先制。そして追加点もCKで2-0。VF甲府もセットプレーから素早いリスタートで得点。2-1。しかし韮高がまたもCKから決め3-1で決着がつきました。

選手達は冷静に見てVF甲府の選手の方がフィジカル、ボールへのプレスが力強く、イメージ的には九州のサッカーチームのようでした。また攻守の切り替えが早く、上手い選手がいました。しかしサッカーは分からないものです。速くても上手くても韮高のDFラインが崩されていなかったので、脅威を感じませんでした。

 

韮高の選手はVF甲府の選手より都会的でした。とても良い試合で見ていてとても面白かったです。

 

何よりも選手達の背景が個人的に面白く、どちらのチームの10番も韮崎出身。VF甲府の伊藤君は韮崎SCからVF甲府のユースに進みました。一方、韮高の10番保坂君は知る人ぞ知る保坂孝さんの息子。VF甲府ジュニアユース出身です。ピッチでプレーする選手の中でダントツで輝いていました。お父さん譲りです。ドリブル、パスとサッカーセンスがワンランク上だったと思います。プレーを観ていて惚れ惚れしました。

 

韮高の2得点目も韮崎SC出身の選手で小柄ながらスピードがありました。また中盤のキープレーヤーですが、2つ上の先輩の息子、山主でした。小さい頃から知っている選手がしっかりと順調に伸びていてくれてうれしく思いました。

また韮高スタメンの11人中4人がVF甲府ジュニアユース出身。右SBも可能性を感じさせるプレーをしていました。

 

何となくですが、今年の韮高はやってくれそうな気がしました。まだまだ蹴るサッカーが随所に見られますが、昨年に比べるとレベルの高いサッカーをしています。

しかし山梨学院はプリンスリーグ1部です。2ランク上のカテゴリーにいます。このチームを倒さない限り、全国への道は開けません。強いチームが勝つのではありません。勝ったチームが強いのです。志を高く持ってサッカー道を極めて欲しいと思います。

 

明日は前橋育英とトレーニングマッチです。全国の舞台に立てるよう頑張って欲しいと思います。レベルの高い面白いサッカーを見せてもらい、とても満足でした。

 

 

画像サイズも小さく、公開範囲が限定されていて7人しか見ていない、自分自身が忘れていた記事である。この試合は明るい未来を感じさせるプレーの連続で、見ている方も大きな力をもらえた試合だった。ブログを立ち上げようと思わせる力強い試合だったと今でも思う。

残念ながら、まだ僕の中には過去を振り返り「あ~、あの時代は良かったな~」と懐かしみ美化する時間はない。過去など振り返らず、まだまだ未来を見据え、前進する意欲の方が勝っている。というか、サッカーの奥深さが増すばかりである。現在地の確認の意味での定点観測があり、進むべき方向の再確認という括りでは、良かったかもしれない。恐るべき速さでサッカーが進化している。なんとかもがきながらついて行こうと思う。

 

 

 

【サッカーの根源性】

サッカーという競技をよく観察すると、人類の行動としては、いかにもその能力に相応しくない奇妙な点を特徴としていることに気が付く。ホモサピエンスが現在ある姿にまで、他の生物を圧倒的に凌駕して繁栄できたのは(個人的にこれを繁栄という目的論的また直線時間的な表現を与えるのがいいのか疑問に思っているが)、二足歩行に移行して、大脳新皮質が異様に拡大し、二本の手を器用に自在に操る術を身につけたことが、大きな要因になったことは、誰もが反論できないことであろう。

ところが、現在そのホモサピエンスが、彼らが生息する地球上で最も愛好し、各国の損得・思惑が複雑に入り乱れる現代社会情勢の中で、FIFAという唯一の統合組織まで作り、分裂もせずに見事に運営しているこのスポーツは、ホモサピエンスの生命線とも言える頭脳を激しくボールにぶつけ、ボールの衝撃からくる脳震盪さえ厭わず、またヘディングの競い合いで二人の選手同士の頭がぶつかり強打しあうことさえ発生する。加えて、ホモサピエンスのもう一つの生命線である両手で、ボールを扱うことが規則で禁じられているのである。冷静に考えてみれば、サッカーとはなんと野蛮極まりないスポーツであろうか。

~略~

手を使うことが禁じられ、ヘディングで激しくボールをぶつけることが推奨されるサッカーの野蛮さは、格闘技やアメフトとは全く異なる様相を呈する原始性に基づいていると言える。

現在サッカーの高度なシステム論や技術論がサッカー関係者の間で活発に議論されているが、サッカーの本質を考える際に、今盛んに取沙汰されているこの現代的な合理性が、ハンド禁止や、ヘディングといったホモサピエンスの特性を頭から拒絶する非合理性を下部構造として成り立っているという事実を、我々は看過することは許されない。

ホモサピエンスは常に理性的なものを追求することにより、自然を征服し、自らの欲求を満足させてきたのだが、その数万年ほどの歴史の中で、理性ならざるものが度々顔を覗かせては、我々が何者なのかをもう一度問い直させる事象や瞬間が、誰の身にも起こったに違いない。私は最新の精巧なテクノロジーに取り囲まれた現代社会にあって、その問い直しの機会を、日常社会生活の上に投げかけているのが、サッカー的なものの正体ではないだろうか、と考える瞬間がままある。

~略~

ホモサピエンスの誕生以前に我々の先祖がその状態に近かったであろうと思われる野蛮性を表すサッカーが、地域や文化水準に関係なく世界中のホモサピエンスの末裔を魅了してやまない身体活動の根源にあるとすれば、たとえすべてが程度問題に収斂される仮象の世界にあっても、我々がサッカーを手放さず、推進していく十分な理由になるのかも知れない。

荘田通著『サッカー派の日本観』