第59回全国高校サッカー選手権大会 準決勝 韮崎-古河一
漠然と思い描く未来らしい未来が見えない日々が続いている。
ふと、あてもなく僕のサッカーの原点について思案した。正確に言うならば、「本気でサッカーをしようと決意をした時」である。
今から40年前、第59回全国高校サッカー選手権大会準決勝の韮崎-古河一の試合が、僕のサッカーの源流であると思っている。地表からにじみ出る最初の1滴がこの試合に詰まっていた。40年経った現在、その試合をじっくりと細部まで見ると、それは確信に変る。
原体験とでもいっていい韮崎-古河一の試合は、僕が国立競技場を初めて体験した試合である。聖地と言われる国立競技場のピッチでグリーンのユニホームが闘っている姿は衝撃的というよりショックに近いものだった。大阪から首都圏開催となっての5年目。もちろん4万人という大観衆の中での試合も初めてであったし、応援バスに乗って韮高を応援するということも初めてだった。
前年の韮高は決勝まで勝ち進み、帝京に敗れていた。その決勝戦の韮高を応援する予定でいたのだけれど、その日は小学校の親子レクがあった。勝ち進めば親子レクが中止になると思っていたけれど、悲しいことに予定通りやることになった。当日、親子レクのスケジュールも変更され、午後はみんなで韮高-帝京戦を小学校の教室のテレビで観戦することになった。当然と言えば当然で、日本一を決める試合の韮高のメンバーに、担任の先生の息子が出場していた。帝京に0-4で負けてしまった試合の後、国立競技場のピッチに多くのファンが飛び降りた(僕もその1人でありたかったと今でも思う)。
試合後の担任の先生は、とてもがっかりとしていて、静かに涙をにじませていた。それまでの試合の応援席に先生が映っていて、毎試合応援に行っていたのは分かっていたので、親子レクも中止にして国立競技場に行くべきだったと思う。僕が20代から30代には、その担任の先生とは、地元のお祭りで会った。(先生はお神楽をしていた)。会う度に、あの時は国立競技場に応援に行くべきだったと言った。そうしたら韮高が優勝したとつけ加えて。
色々な想いが詰まって、国立競技場にようやくたどり着くことが出来た。
古河一との準決勝での韮高のメンバーを見てみると、弱いはずがなくスキのない強さである。3年生が3人(横川、藤巻、植松)、2年生が4人(小林、輿石、小尾、大柴)、1年生が4人(志村、小沢、保坂、羽中田)である。選手全員がほぼ全国レベルである。DFにやや不安があるものの、慎二さんがスイーパーなので、ポジショニング、カバーが抜群である。慎二さんは中盤の選手だと思っていたので、まさかだった。
解説は東洋工業の松本育夫だった。今聞いてもしっかりとした解説であり、ちょっと韮崎よりの視点がある。GKへのバックパスが普通の時代であり、CKになったときにボールを拾いに行く姿も昭和的である。ベンチレポートも、聞こえてくる応援も(当たり前だけど)昔のままである。ハーフラインにもフラッグが立っている。
ハーフタイムには恩師の若かりし姿が映る。僕も中学時代には東京で試合をしてから、韮高の試合会場に向かった記憶がある。
0-1で前半を折り返し、韮高は文雄さんの得点で1-1に追いついた。そのシーンは忘れることが出来ない。文雄さんの表情を見ると、心底サッカーを楽しんでいるなといった感じが伝わってくる。試合中の表情は悲壮感というより、サッカーそのものを楽しんでいるようである。PKを外しても、試合終了のホイッスルが鳴った後でも、その表情は印象的である。小学生の頃、「植松は遠征のバスの中で参考書を開いて勉強している」とよく監督に言われたものである。
選手個々のサッカーセンス、ボールタッチ、ドリブル、フェイントはとても個性がある。日本でも屈指の選手が揃っていたことは史実に残る事実である。この試合に出ていた11人中、10人の選手が高校3年間の選手権大会で優秀選手となっている。
PKで負けてしまった韮高だけれど、僕の心に火をつけることには成功した。数年後にはグリーンのユニホームを着て国立のピッチに立つという目標ができた。そのためにはどんなに苦しい練習でも乗り越えようと覚悟を決めたし、サッカーを第1に考えて優先順位を決めようと決意した。
今思うと大きな影響を受けた試合であったと思う。人生にはそういった試合体験が必ずある。それが日本代表であったり、世界のクラブチームであってもかまわない。僕の場合はそれがたまたま韮高だっただけである。そしてその映像が今も残っていることがとてもうれしい。