ニラニスタ発・蹴球思案処

蹴辞逍遥・晴蹴雨蹴

年頭所感

年頭所感

 

良くも悪くも新しい年はやって来る。サッカーと新しい年の組み合わせは、あまりぱっとしない。欧州ではシーズン途中だし、日本では元旦が天皇杯決勝(近年不安定)であったり、高校サッカーは年をまたいでの選手権開催中である。新しい年に関係なく、勝者と敗者が生まれる。

論語』の中の名言を座右の銘にしている人は多い。10人いれば10人とも異なった解釈ができる許容範囲が広い名著である。『論語』とサッカーを結び付けて所感としたい。

 

見義不為無勇也

義を見て為ざるは、勇無きなり。

ぎをみてなさざるはゆうなきなり

 

サッカー選手として、やらなければならないこと、上達するにあたり絶対にすべきことはたくさんある。やらなくてはいけないと分かっていてやらないのは、自分対しても仲間に対しても失礼である。自らの意思の弱さからくる妥協や先延ばしは、目標を高く掲げるサッカー選手にとって致命的である。「勇無き」である。自らがアクションを起こすことが第1であるけれど、指導者から言われて、仲間から言われてアクションを起こすことができれば、第2となる。

自らが気付くことができる選手が多ければ多いほど、レベルの高い良いチームとなる。試合中の攻守の仲間のサポートとフォロー、守備におけるリスクマネッジメント、スペースやパスコースの気付きは、ベンチから言われてからの選手と自らが気付いてできる選手ではどちらが優れた選手なのかは誰でもわかる。そのような意味において、自ら気付くことのできる選手は少なくなっているように感じる。

「義を見て為さざる」は、自分以外のことに関しても言える。試合中の仲間への指示は絶対だろう。勝利を目指して、または目標の実現のために、チームメイトが手を抜いている時や、モチベーションが低い時には、仲間としてしっかりと言葉で表現してやらなければならない。そして困っている仲間がいたら、手を差し伸べることもこの中に含まれる。分かっていて何もしないのは、「勇無き」である。常に全力を出せるチームであるには、そういった部分も必要である。

 

もちろん、間違いはある。自分の行動がすべて正しいとは限らない。ホッとすることに、サッカーはミスのスポーツである。上手くいかないことの方が多い。ミスをした後のリカバリーが重要になってくる。『論語』から引用すれば、

 

過而不改 是謂過矣

過ちて改めざる、是れを過ちと謂う。

あやまちてあらためざる、これあやまちという。

 

となる。有名な深い言葉である。サッカーにもそのまま当てはまる。僕はこの名言より、ミスの多いサッカーならば、違った孔子の言葉の方がしっくりくる。

 

過則勿憚改

過ちては則ち改むるに憚ることなかれ

あやまちてはあらたむるにはばかることなかれ

 

試合中、ミスをする。そのミスを躊躇することなくすぐに認め、勝利のためのアクションを起こすことである。悔しがってピッチに倒れていたり、審判に文句を言っていたら終わりである。ピッチ外の人間関係も同じである。サッカーは人間がするスポーツある。サッカーをする人間のレベルが上がれば、確実にチーム力は上がる。常にチャレンジをしながら、間違ってしまったら「改むるに憚ることなかれ」である。良い雰囲気を持った集団であれば、良い結果がついてくる。たとえ思い描いた結果でなくても、そのような集団ならば、次につながる何かが残る。