ニラニスタ発・蹴球思案処

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学びの途中

学びの途中

 

日常やサッカーを取りまく状況が、目まぐるしく、華やかに動いている中で、一人静かに好奇心に突き動かされながら、ページをめくることもありである。まだ学びの途中で、自分の言葉で上手く表現できないので、勝手ながら原文のままではなく、サッカーに置き換えて書写のまねごとをする。

「なぜサッカーをやるのか」と「いかにサッカーをやるのか」という視点でサッカーを思案する。

「なぜサッカーをするのか」というお題については、「サッカーは目的的行動を自己目的的行動にまで、自らの意思で高めようとする行動である」となる。自己目的的行動の深堀については、学びの途中である。

一方の「いかにサッカーをやるのか」については、最終的には勝利をめざすけれど、日常のトレーニングという積み重ねのプロセスを大切にすることである。

 

最近のスポーツは国際的に、目的を達成するためにはどんな方法と手段を選ぶべきかという研究が始まってきた。サッカーにおける各種のプレーはゴールをとるための技術であり、チームの戦術もまたゴールをとるための技術である。そしてこれらの技術はその根底に裏付けとなる理論を持っている。理論的に研究された技術がこの理論指導で教えられ、トレーニングによって実験され、反省し吟味し再組織されて、熟練技術として戦法的に練習され、反省、検証、再組織を繰り返しながら進歩していく。こうしたサッカーへの理論注入こそ、現代サッカーの特徴であり、こうした過程をたどって、勝利を目的として真剣に練習されているのである。

こうした戦術、技術、トーレニングへの理論の注入はとかく若いプレーヤーの陥りやすい衝動的なプレーを知性的プレーへと導く第一歩であり、サッカーこそ知性的行動だということを認識させ、選手達を向上と進歩へと導いていく。選手が衝動的行動から知性的行動へ進んでいく最も確実な方法は、ある目的を設定しその目的を達成するために、各種の情報を収集して理論を構築し、それを実験して反省し吟味し再組織した理論を繰り返し実験していく過程である。ここにサッカーを行う教育的価値の一つを見出すのである。サッカーをやる楽しさの一つは、ただサッカーが面白いからではなく、自分が考えた理論的技術が練習によって熟練的技術に向上し、それがゲームにおいて有効に実証されるという研究努力の累積による完成の楽しみなのである。

 

時間があるからやるのか、時間がないときだからこそやるのか、学びの姿勢は常に心得たい所作である。何かのためになるからやるのではなく、自分の内から湧き上がる純粋な好奇心や探究心からのアクションを起こしたい。自分のそういった部分に素直に向き合うことは、これからの時代にはもっと重要になる。