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意地とプライド

意地とプライド

 

東京オリンピックの男子サッカーが終わった。スペイン-ブラジルの素晴らしい1戦は、地上波で放送されることなく、サッカーファンからすれば日本のサッカーの位置づけが分かってしまった。とても残念であると同時に、まだまだこれから日本国内において大きく伸びる競技であることを願いたい。

 

コロナの感染拡大に伴い、山梨県から県立高校の部活動停止要請があった。盛り上がる東京オリンピックとは対照的に、腑に落ちない自粛要請である。言っていることとやっていることの整合性はなく、矛盾に満ちあふれた世の中になってしまった。

 

このような状況なので、外に目を向けず内に目を向け、意地とプライドについて思案したい。サッカー選手の数だけある(と思われる)意地とプライドとはどのようなものか。

 

意地という言葉は、「意地汚い」「意地悪」といったネガティブで否定的な感情のイメージがある。サッカーではその「意地」は必要不可欠な感情である。相手とのマッチアップで、意地をみせなければならない。格上相手に、意地でもやってみせなければならない局面もたくさんある。自分の意志や行動を押し通そうとする強い心は、サッカーの原理原則に従ってさえすれば、プラスに作用する。

 

プライドは意地より良く使う言葉である。自分がサッカー選手としてどうありたいか、自分がサッカー選手であるための一番大切な指針である。また自分が自分であるための価値観であり、サッカー選手としての尊厳でもある。

サッカー選手において一番ダメなのは、変なプライドを持つことである。プライドが邪魔をするサッカーはありえない。プライドを捨ててまでプレーする選手のそのプライドは、普通に考えて、他から見れば取るに足らないものであることが多い。

 

意地とプライドを持つことは、目に見えない力を蓄えることができる。そして最終目標に対して、あきらめずに突き進むことができる。誰にでもある苦しい時、逆境の時、嫌になる時に、意地とプライドは力を発揮する。後になって振り返ってみると大したことがないのに、その状況下では100%以上の力を振り絞らないとと思うことがある。「こんなところで挫けていられない」、「ここが踏ん張るところだ」と意地とプライドで乗り切らなければならない。

 

3年生は高校でのサッカー生活が終わりに近づいている。サッカー選手として自らの指標や指針を考えることは大切である。1つ1つのプレーに対しても同じことが言える。選手個人としての意地とプライド、韮高サッカー部の意地とプライドの2つ存在する。良い意味で、プライドを捨てずに意地を張りたい。これからは意地とプライドを懸けた試合が待っている。