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サッカーにおける成長の限界

サッカーにおける成長の限界

 

人類の成長とか経済の成長とか、難しいことは分からないけれど、サッカーにおける成長には限界はないと考えている。サッカーにおける成長の果てはない。

例えば、ベテランDFが新悦のストライカーにスピード、俊敏性で劣っているとしても、それを補うための経験値を蓄え、なおかつそれを活かすプレーを実践しているということは、成長していることと言える。

 

サッカー自体が進化し続ける日々において、選手自体の成長は当然求められる。DFは守備だけしていれば良い時代ではなく、FWは攻撃だけをしていれば良い時代はとっくに終焉した。11人の選手のポジションの概念さえ崩れている時代においては、トレーニングも進化しなければならない。フィジカルだけを強化する単純な筋トレやランニング、反復練習などのトレーニングは、試合を想定したボールを使った一体化したトレーニングへと移り変わっていくような気がする。

 

戦術的ピリオダイゼーションの概念では、サッカーは複雑系であると定義している。試合では予期せぬことが起こる。予測不能の局面に対し、選手がどのようにプレーをすればチームとして機能するかを追求している。

個人的な意見を述べれば、サッカーが複雑系であるならば、サッカーだけをしていてはもはや時代遅れになってしまうのではないかと思っている。サッカーにおける成長は、サッカーだけしていては成長が鈍化する。

 

試合中にどちらに転がるか分からないボールによって、8割9割が予期せぬ展開になるとしたら、そしてそれが勝敗を左右するのであれば、それは人生と似ている。明日何が起こるか分からない。試合が中止になるかもしれないし、サッカーそのものがやれる状況かどうかも危うい。そのような時代であると考えるならば、サッカーの試合にやはり似ている。人生も予測可能な出来事の方が圧倒的に少ない。そのような状況下で、選手個々がどのようなアクションをとるのかが、将来を大きく左右する。

 

選手の取るべきアクションは、試合ではプレーモデルに則っている。人生においてもその指針は存在しなければならない。多くの選択肢の中でより良い選択をするために人間は学習する。その学習は机の上での勉強であり、親からの躾であり、地域やサッカーからも生き方を学ぶ。学生時代は、学ぶ生き方を学んでいる過程である。よりベストでベターな選択をこんな時代だからこそしなければならない。サッカーにおける成長の限界はない。

 

希望はその人間の未来を照らす光だが、この光は恒久的なものではない。

光を見失ったとき、いかにして未来への道を見つけるか。

そこに人間をしての、男としての真価があらわれる。

 

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