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全国高校サッカー選手権大会 首都圏開催の歴史

全国高校サッカー選手権大会 首都圏開催の歴史

 

コロナの影響でありとあらゆるものが「自粛」となった。生活様式変化し、自宅待機が増えた影響で、昔の映像が次々と発掘されている。懐かしくも新鮮な映像を楽しませてもらっている。

 

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韮高がインターハイに初優勝した翌年から、選手権大会が首都圏開催となった。1976年(昭和51年)のことである。伝説の決勝戦と言われている浦和南静岡学園の試合は、初の国立競技場だった。静学は準決勝で古河一と対戦した。韮高は準々決勝で古河一と対戦し0-2で敗れ、惜しくもベスト8止まりとなった。夏のインターハイでもベスト4に勝ち進むも、やはり古河一に準決勝で0-2で敗れている。古河一に2連敗の戦績となった年だった。

 

首都圏開催になって4年後、1979年(昭和53年)、韮高が初めて国立競技場での日本一を決めるピッチに立った。

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1981年(昭和55年)、再び決勝戦のピッチに立った韮高は、共に初優勝をかけた武南戦に0-2で敗れた。試合終了のホイッスルが鳴った後、ピッチにうつぶせに倒れている大柴剛さんが印象的であった。1年の時からレギュラーであり、3年間で国立のピッチに5回も立つことのできた選手であり、高校3年間選手権優秀選手に選出された。

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翌年の1982年(昭和56年)、選手権5度目の決勝進出の韮高は、やはり初優勝を狙う清水東と対戦した。清水東も3度目の決勝進出であった。前年インターハイで初優勝した清水東に韮高は準決勝で対戦し0-3で敗れていた。結果として1-4で惨敗してしまったものの、1得点できたことは素直にうれしい。当時、寒々とした国立競技場のスタンドで応援していた僕は、最後の最後まで逆転できるものと信じていた。

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映像では、全般的に帝京の雄姿が印象的である。個人的には、なぜか韮高の敗戦シーンが力強く残されているように思う。決勝の失点トータルが3戦で10失点だからそれも仕方のないことかもしれない。オールドファンとしては、40年も前のことなのに、ほんの少し前のような感じがする。

韮高の選手権出場を「今年こそ」「今年こそ」と願いつつ、多くの歳月が経とうとしている。そして今年も「今年こそ」と願う。