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目にした記事 22-04 インターハイ準決勝

目にした記事22-04 インターハイ準決勝

 

山梨日日新聞 22.6.19 記事】


駿台戦は、「全力を出し切って力及ばずの試合」だったのだろうか。「全力を尽くさずして、惨めな思いをした試合」だったのだろうか。全力を出し切れずに敗れてしまったように映るその試合は、後悔の残る試合だったような気がする。

インターハイ準決勝の駿台甲府戦、関東大会の武南戦、県総体決勝の山梨学院戦と、あとちょっとのところで勝利がつかめないのはなぜなのだろう。勝利がこぼれ落ちてしまう様々な要因を様々な角度から、誰かに教えてもらうのではなく、自分自身でしっかりと考えることが重要であり、その作業こそがこれからの将来を左右する。

 

充分、射程距離のインターハイを逃してしまったので、残念会というべき反省会をした。「お前が、今年の韮高は強い、なんて書くから負けてしまった」とか、「たいしたことないのに褒めすぎだ」とか言われた。何の根拠もないけれど昭和の時代は「インターハイに負けると今年の韮高は強い」みたいな都市伝説があった話だったり、必然的に自分たちの時代のインターハイの話になっていった。

 

ちょっと前のブログ『四国インターハイ』で書かなかったことで、80年の愛媛・松山インターハイの話題になった。その大会に出場していた先輩2人がタイミングよく、その席にいたので詳しく話を聞いた。

正月の選手権ベスト4の実績を引っ提げた強豪韮崎は、1回戦・秋田、2回戦・室蘭大谷、3回戦・鹿児島実と破りベスト8へ進出。準々決勝は清水東だった。2-4で敗退。清水東はその勢いで優勝。時間を進め、翌年のインターハイで韮高は準決勝で清水東に敗れ、清水東は2連覇。翌々年の選手権で清水東は決勝で韮崎を破り、初優勝となった。

反省会では、その時の大先輩方の武勇伝は話に上がらず、どうでもいい記憶が蘇った。松山インターハイでは、静岡まで電車、そこから寝台特急で岡山へ。船で四国へ。その辺から先輩たちの記憶が定かでなくなり、岡山の後楽園で観光をしたとか、いろいろな遠征の記憶とごちゃ混ぜになる。2人の先輩の一致した思い出は、宿舎で火事が起きた事だった。清水東戦の前夜、韮高サッカー部の選手の眠る旅館でボヤ騒ぎがあった。原因は韮高の選手だった。もちろん(?)タバコではない。出火原因も納得がいく。先輩の1人は連戦の疲れから「なんだ火事か」と思ったそうである。試合の話より、面白い。あいつがああだった、こうだったとか、いやそうじゃない、いやそうだったとか、聞いていて笑える。

清水東に負け、帰りはバスだった。フェリーで四国から本州へ渡り、そこから長い時間をかけて韮崎まで帰ってきた。高校生というのは、僕の時代もそうだったけれど、馬鹿みたいなろくでもない事しか覚えていない。

今度は、後輩たちに高知大会、香川大会の話を聞いてみたい。この辺の時代は、インターハイ前に近くのフェスティバルに参加して、インターハイへ乗り込んでいったような気がする。インターハイは来年で日本全国の持ち回りの大会を終え、福島での固定開催となる。なんとなく趣がなくなるとはいえ、選手ファーストで考えるならば、ベストに近いコンディションでプレーできる場がやはり良い。

今年は絶対に徳島に行こうと決めていたので、残念でならない。大阪のサッカー仲間に会う約束をしていたり、神戸賀川サッカー文庫にも立ち寄る計画を立てていたりしていた。山梨から遠く離れた地で、韮高が勝ったのか負けたのか、試合の結果を楽しみにする時代もなくなった。現在はライブ配信もあり、リアルタイムで戦況が分かる。時代の進化と同様に、韮高のサッカーも進化しなければならない。

驚くほど多くの方々が、韮高サッカー部を応援している。派手に応援することはしない。静かに地味にひっそりと韮高サッカー部を支えている。けれどその力は見えない故に強い。表に出て誰でも知っているようなパフォーマンス的な人間とは比較にならない。見えない大きな力を自分の力に変え、選手権では爆発して欲しい。