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ラクビーワールドカップ サッカー的視点からの感想

ラクビーワールドカップ サッカー的視点からの感想

 

「にわかファン」「ラクビーロス」という言葉が生まれ、日本代表の躍進もあり大成功に終わったラクビーワールドカップだった。現役プレーヤを含めサッカーに関係する多くの人は、どのように今回のラクビーワールドカップを受け止めているのだろうと試合を見るたびに考えていた。

 

個人的にシンプルに浮かんだ感想がある。それは「あぁ~、自分はサッカーをやっていて良かった」と言うことである。「スポーツ」が非日常的行為と仮定して、ラクビーとサッカーは起源を同じくしてスポーツでありながら、対極に位置する存在となってしまった。ラクビーははてしなく非日常的スポーツであり、サッカーははてしなく日常に近いスポーツとなった。

 

ラクビーはその試合自体ですべてが完結する。お互いの選手、そして審判、観客で素晴らしい試合を作り上げようとする意識がある。一方でサッカーは試合自体に日常のありとあらゆるものを持ち込む。民族、宗教、政治、金であり、選手もサポーターも純粋に試合を楽しむことはもはやできない状況である。だからFIFAはリスペクトだとかフェアプレーだとか、スポーツをやるにあたり本来当たり前のことを声を大きくして言っている。

 

フェアプレーについては、良いか悪いかは別にして、対極に位置するスポーツである。ラクビーにおいては、審判のジャッジを絶対的なものとして受け止め、次のプレーにもくもくと切り替える。サッカーはホイッスルが吹かれるや否や、審判に詰め寄るシーンが見られるし、審判を取り囲んで次のジャッジが有利に働くようプレッシャーをかける。シミュレーションはあるし、大したことのない接触プレーでも大げさに痛がりピッチに倒れこんでいる。審判でさえ、敵とみなすこともある。

 

ラクビーのハーフタイム。選手は全力と思わせるような速さで走ってピッチから引き上げる。サッカーでああいった仕込みをすると面白いのになと思うほど、サッカーの試合では見ることはできない。

 

ラクビーのコンバージョンゴールとペナルティーキックでは、観客も静かになる。サッカーのフリーキックペナルティーキックでは、サポーターはブーイングで点が入らないことに全精力を傾ける。

ラクビーのノーサイド後の美しい(と言われる)シーン。選手同士がお互いを称えあう姿は見ている者に何かしらの感動を与える。

 

ラクビーの観客とサッカーのサポーターでは大きく質を異にする。ラクビーの観客は、見ている者も試合を作ろうとするし、楽しく友好的な雰囲気を醸し出す。チームのフラッグもなければ、楽器もない。ビールを飲んでとても陽気である。サッカーはスタンドが区切られ相手サポーターとの接触はできないのが当たり前であり、アルコールは別の方向へ導かれることが多い。友好的フーリンガンはサッカーにはほとんどいない。

 

これほどまで異なってしまったラクビーとサッカーは、サッカー的視点で見ると、ラクビーはいろいろなものを持ち込むと成立しないスポーツであり、その意味で非日常的空間である。人間同士があんなに激しくぶつかり合うことは日常ではありえない。

サッカーは日常のちょっと隣の非日常であり、見るもの全ての人が日常のごちゃごちゃしたものを持ち込めるほど近い位置にあるのではないかと思う。庶民的で気軽に見ることもプレーすることもできる。

 

勝戦で敗れたイングランドの選手がメダルを首から外したシーンなんかは、ノーサイド精神からは程遠い態度であったけれど、サッカー的に見れば大きく共感できる。ということで、「あぁ~、自分はサッカーをやっていて良かった」と思うのである。

 

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