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『サッカーと人種差別』

12月 サッカー本
 
『サッカーと人種差別』

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著 者 陣野俊史

発行所 文藝春秋
2014年7月20日発行
 
現在韮高サッカー部に在籍する世代の選手たちの小さい頃から現在までの世界のサッカーの潮流について考える時、必然的にバルセロナのポジェッションサッカーは切っても切り離せない存在である。世界クラブワールドカップ(僕らの時代はトヨタカップ)が久しぶりに日本で開催される。ヨーロッパチャンピオンのバルサがやってくる。ネイマール、メッシ、スアレスの強力FWも凄いけれど、僕の記憶に残るバルサのFWはエトー、アンリである。個人的に思い入れのある好きな選手である。強さの中にしなやかさがあり、速さの中に巧さがあった。
 
サミュエル・エトーティエリ・アンリを思い浮かべる時、どうしても「人種差別」を思いだしてしまう。肌の色の差別。80年代前半までフランス、オランダ以外のナショナルチームはすべて白人だった。そしてイングランドでドイツでファーディナンド、ボアティングが代表に選ばれ活躍する。最後の最後まで白人オンリーを貫いてきたイタリアも2012年のバロテッリを招集。
あの頃、僕が抱いた(間違ったと今では感じている)違和感があった。イングランドやドイツの試合に黒人が出ているという違和感。そして2012年のユーロのイタリア代表でのバロティリ。
僕でさえ違和感を抱くのだから、当時のその国の世論やサッカーが密接に絡みあう社会にとっては、想像を絶する様々なことがあったと推測される。
 
この本はサッカーをやっている人間が、一般社会での人種差別について考える時、一番身近に親近感を持って人種差別について考えられる本である。まずもって人種差別を受けた人間が誰もが知る一流プレヤー(憧れ)のサッカー選手だからである。このことは我々にとってとても重要なことであるし幸せなことである。サッカーをする仲間として、人種差別をどのように自分の中で噛み砕くか、そして考えるか、感じるか。
 
カントナのカンフーキック、ジダンの頭突き、最近ではダニエウ・アウベスのバナナなどサッカーの試合を舞台にした人種差別は世界中の話題となっている。
そのような中で、僕自身はエトーが大好きなので、人種差別をされ続けたエトーに関しては他人ごとではない。
 
本書も衝撃的かつ悪質なエトーへの人種差別を取り上げている。2006年、あの時のエトーは本当にかわいそうだった。本文を引用する。
 
サミュエル・エトーほど人種差別に晒されている選手は、ほかにいないのではないか。~略~ もっとも悪質なものは、2006年2月25日のリーガ・エスパニョーラ、FCバルセロナレアル・サラゴサ戦での差別だろう。~略~ 試合後半、エトーは激しく抗議した。もうプレーを続けることは困難だ、と表情は明らかに語っている。主審は線審と協議するために、忙しくピッチを走る。エトーは耐えられないといった態度で、激しくサポーターを指さす。歩いて去ろうとしている。チームメイトたちはピッチを急いで出て行こうとするエトーの腕を掴んだりして、必死に押しとどめようとしている。ロナウジーニョが一番近くに来て、エトーを説得する。プジョルもデコも寄ってくる。エトーの口は「ノー・モア」と動く。これ以上はプレーは無理だ、との意思表示だ。当時の監督フランク・ライカールトは戸惑いを隠そうともせず、サイドライン際に突っ立ったままだ。およそ2分間、エトーはプレーを放棄した。もう人種差別的野次にはうんざりだ、という顔。この時、主審は場内アナウンスで、侮辱的行為を慎むよう要請した。だが、逆効果だった。人種差別野次はさらに火に油を注ぐ形になり、試合終了まで続いた、という。
 
文章より映像の方がこういうときには威力を発揮するかもしれない。人種差別やその他の差別をサッカーで経験する時、僕はいつもこの映像を見る。

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アートや音楽などの芸術、差別に直接取り組む団体など世の中には色々な人間がいる。そのような世の中の中で我々はサッカーを切り口としてアプローチできる。サッカーは人生そのものである。サッカーボールを通じて我々が学んだこと、学ぶことはサッカーだけでは収まることは決してないし、そうしてはいけない。勝ちよりも大切な価値はピッチの上にたくさん転がっている。