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県総体準々決勝 韮 崎-山梨学院

令和5年度県高校総体サッカー競技兼関東大会予選 準々決勝

 

結果

5月5日 水 10:30キックオフ 韮崎中央芝生

韮 崎 0-1(0-0)山梨学院

 

4年連続の関東大会出場は、途絶えてしまった。というより、あんな試合をしていたら普通に負ける。率直な感想としては、過去5年ほどのタイトルの懸かる試合の中で、ワーストに匹敵する試合だったように思えた。腹が立つというよりも、情けなく救いようのないカス試合だった。

人間本来がもつ闘争本能ががっかりするほど欠落していたし、山梨学院には申し訳ないけれど、河川敷で楽しみながらプレーしている草サッカーと何も変わらなかった。フラットな視線で見ても、とてもつまらない見せ場のない試合で、ピッチから伝わってくるものは何もなかった。レベルが低い高いという次元ではない、競技スポーツとしてのサッカーとは思えない体育祭の試合だった。W杯の決勝アルゼンチン-フランスの試合のような、鬼気迫る雰囲気はゼロで、僕のサッカー基準からすれば見る価値のない内容だった。負けても悔しくもない無気力サッカーであり、魂ここにあらずといったプレーは酷すぎた。

試合を振り返ってみれば、試合は立ち上がりの10分で決着のついた試合だった。試合の潮目は早々とやってきて、決定機を決めきらない韮高の劣勢は明らかだった。開始早々に3-0にできなかったことが敗戦の決定的原因である。失点は後半開始早々で、あの攻撃を人数の揃ったディフェンスでゴールをこじ開けられているようでは、勝てない。後半アディショナルタイムは4分。そこから怒涛の攻撃でゴールを割ったような、ハンドで止めたようなプレーがあったけれど、始めからそのような気持ちでプレーすれば良いことである。後でどうのこうのと言うのは、自分たちのだらしないプレーの連続を棚に上げた、軽率な恥ずかしい発言そのものである。

 

山梨学院の選手たちは翌日にプリンスリーグがあるので、トップのメンバーは出場しなかった。学院の選手にはちょっと同情の余地があった。プロでもないのに、3年連続で監督が代わる高校のサッカーというのは、どのようなものだろう。学院の選手には頑張ってほしいと思うと共に、その体制に対して、徹底的に韮高が打ちのめしてやりたかった。逆に打ちのめされたのは韮高だった。

学院の試合前のアップはコーチが笛を吹いてダッシュをする昭和の懐かしいアップが見られた。学院らしくない古典的なアップで、選手達はとてもリラックスしていて、楽しそうだった。ピッチに入りスタンドにあいさつに来るときも、選手、スタンドの部員は明るい表情をしていた。学院はいつもそうだけれど、スタンドに向かって「応援よろしくお願いします」と言って挨拶をする。韮高は選手が手をつなぎ、静かに目をつむっている。試合後の学院は、「応援ありがとうございました」と大きな声で言う(4年前の学院戦、平松主将の涙ながらの挨拶は立派だった)。先日の甲府工の選手の試合後のあいさつも拍手を送りたくなるほど立派だった。もちろん韮高はあいさつをするだけ。保護者や韮高ファンにあいさつをするのではなく、スタンドで見守り応援していた部員たちをもっとリスペクトすべきなのではないかといつも思う。「応援ありがとうございました」と言うのが、スタンドにいるピッチに立てない選手では哀しすぎる。

 

ピッチに立てなかった部員は、ピッチに立った選手に自分たちの将来を任せておけないと思わないといけない。託せない想いは、自分でスタメンを勝ち獲り夢や目標を実現させなければならない。おそらく山梨学院のセカンドチームも似たり寄ったりであると思う。テクニック、フィジカル、スピードなどトップの選手とはそれほどの差はないと考えられる。そのちょっとの差はメンタルであったり、普段の生活であったり、人間性の部分が影響しているのではないか。監督の信頼を勝ち取り、苦しい時にこそ頼れる選手になるには、トレーニングと妥協なき生活である。あの失点後のピッチに立つ選手を見ていれば、交代できれば全員を交代した方がいいと思うほど見るに耐えない姿だった。自分でスイッチを入れられる選手、自分を鼓舞できる選手が必要である。変化のないチームは成長は見込めない。変化こそが勝利を生む道である。現段階においては、期待を込めて言うと、このチームでは山梨県の代表になることは厳しい。このことは、僕の思い描くサッカーに対する世界観であり、大きく異なる世界観があって然りであり、それは否定しない。ちょっとばかり下手でも、勝利をたぐり寄せる気持ちの入った選手が出てくることが、韮高の勝ち進む唯一の最短の道である。

GWに帰省した20代のOBの顔があり、何年も前の保護者会長の顔があり、子どもが卒業してもなお、韮高を応援する保護者OBのたくさんの姿を目にした。2年前の選手権決勝以来、観戦に来た方々もいた。僕らの代のキャプテンも昨年の同窓会試合ぶりの観戦だった。3人の子どもがサッカー部にお世話になりまるまる9年も韮高サッカーを見てきた保護者OBと話をした。「よく頑張った」という人は皆無だった。もちろん応援する人たちのことはどうでもいい。それより一緒にトレーニングを積んできた部員、仲間のことを少しでも考えることができたらならば、惨めな試合は演じなかったはずである。仲間の代表として、緑のユニホームを着てピッチに立つということはとても重いことである。人生でも高校生活3年間でも、チャンスはそう簡単に巡ってこない。チャンスを生かすことのできる選手は、持っている選手と言われる。韮高の中にも「持っている選手」がいるはずであり、そのチャンスを待っているかもしれない。日々の努力を怠らず、必ずチャンスは来ると信じて、自分を追い込んでもらいたい。最後にはそういった選手の芽が必ず出てくる。選手権を愉しみにしている。

 

 

サッカーは生死をかけた戦いという人もいる。

が、私はこの捉え方に大きな失望を覚える。

私に言わせれば、サッカーは命よりもはるかに重要である。

ビル・シャンクリー