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韮崎東中サッカー部

韮崎東中サッカー部

 

母校である韮崎東中学校のサッカー部が単独での活動が不可能となり、韮崎西中との合同チームになったと聞いた。令和5年度(2023)の秋の新人戦からということで、少子化、サッカー人口の減少またはクラブチームへの流入など、時代の流れというか複雑な気持ちになった。

韮崎東中時代に一緒にサッカーをしていた仲間から、当時のスコアブックを譲り受けた。30代か40代の頃に、サッカーチームを作ってプレーしていた時に、当時のスコアブックを持っている話を聞き、実際に見せてもらった。50代になって、僕が持っていた方が良いいのではないかということで、10年ぶりに僕の手元にやってきた。ちょうど、韮崎東中サッカー部の1つの区切りと重なり、そのスコアブックをゆっくりとじっくりと見た。貴重な資料として保管する意味も込めて、(モノ好きなので)時間を見つけてデータベース化をした。

 

スコアブックは昭和57年8月29日(1982)から昭和59年4月29日(1984)までの1年8ヶ月の全183試合の記録である。

僕の年表だと3年生が引退した夏の終わりの中1から、中3の春までの記録となる。

当時の記憶は漠然としているけれど、まず負けたことがなかった。負けるとしたら県外の遠征(静岡・東京)に行って、僅差で負けるくらいだった。あとは、韮高や社会人チームとの試合や県選抜にやられるくらいだった。

 

総試合数183試合

勝 ○ 136(勝率0.74)

負 × 23

引 △ 24

総得点 654点(1試合平均3.57)

総失点 115点(1試合平均0.62)

無得点の試合 19試合

無失点の試合 104試合

 

スコアブックで負けた試合がなかなか見つからないけれど、細かく見ていけば、韮高に0-13で負けている試合があり、ライバルであった韮崎西中との対戦成績は思ったより良くなかった。韮崎西中とは18試合・6勝3敗9分(PK1回)である。2点差以上で負けた試合は14試合。県外7、県内3(他、県選抜、韮高とのTMで4)。

 

目の前の試合に勝つことは当たり前で、とにかくがむしゃらにがんばった。一生懸命にサッカーもしたけれど、勉強も一生懸命にやった。高校時代は勉強もしないでサッカーばかりで、おまけに低俗な誘惑に流されたので、ストイックな生活は中学時代のほうがレベルが高かったといえる。

高校時代の練習より中学時代の練習の方がずっと負荷がかかったトレーニングだった。韮東中から韮高へ進学した選手は、韮高の練習の方が楽だったとみんなが思っているくらいである。

 

なぜ苦しくつらい練習をやり続けたのか。それは韮高サッカー部の存在があったからだと今では思う。僕が小学校から中学校でサッカーをしていた時の韮高は、全国選手権ベスト4が5年間も続いていた黄金期であり、単純な子どもたちは韮高サッカー部の活躍に否応なく刺激を受けた。純粋に韮高でサッカーをしたいと誰もが思っていた時代である。グリーンのユニホームを着てプレーすることは誰もが抱いた想いである。TVに映っている憧れの韮高の選手が、普通に韮崎のまちを歩いていて、目標を見失うことは一度もなかったように思う。春も夏も秋も冬も、ひたすらボールを蹴っていた。

 

僕が卒業した後に、韮崎東中は全国大会でベスト4に進んだ。その後も山梨のサッカーをけん引し続けた。韮崎東中単独のチームとしての活動がなくなってしまったのは寂しいことではあるものの、赤いユニホームの韮崎東中の記憶は、多くの人たちの記憶に残り続けるのではないかと思う。