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選手権特集04

選手権特集04

 

山梨日日新聞 21.12.1記事】

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「わたしの選手権」第9回目は、韮高OB4人目の斉藤先生だった。韮高が県内の大会で負ける姿を初めて見たのは、僕が中学生の頃だった。県予選選手権準決勝で、東海甲府の前に韮高が敗れる姿にショックを受けた。その時の監督が韮高OBでもある斉藤先生だった。

その後、僕を含めて6人が韮高サッカー部へ進んだ。東海へは4人がサッカーをするために進路を選択した。当時、僕らの時代は越県受験が難しかったので、韮高でサッカーをするためには、地元の中学から通うシステムだった。韮崎東中には2人、県外からの仲間がいて、韮崎西中には1人いた。その1人が韮高を選ばず、東海へ進学した。そのくらい東海甲府は、その時代は勢いがあった。結果論から言えば、韮高は選手権に行けず、東海が行ったのだから、その選択は正しかった。

斉藤先生には思い出がある。高校時代、山梨県選抜の練習が何度もあって、県選抜の指導者が斉藤先生だった。東海や機山、日大明誠の選手にはあんまり厳しくなく、なぜか韮高の選手にはものすごく厳しかった。選手の偏見であることは分かるのだけれど、僕の仲間は練習中の斉藤先生の言動に我慢ならなかった。「なんで韮高の選手ばっかり・・・」というストレスは、とうとう爆発して、斉藤先生と喧嘩をすることになる。最後の走りの練習が納得いかないで、斎藤先生の言うことを無視して、勝手に帰ってしまった。もちろん、それ以後は選抜には呼ばれなくなった。指導者も選手もガリガリ、ゴツゴツとやり合っていた時代の話である。

韮高を始め、東海も機山も明誠も甲府工も、これでもかと言うくらい素行の悪い子供たちが集まっていたので、先生たちもかなり手を焼いたのではないかと思われる。ぶっとばされても、子供たちもちょっとやそっとではへこたれなかった。何に対して、そんなに抵抗していたのか、負のパワーをサッカーに変換できればものすごいパワーになるのにと、とんでもない先輩や仲間、後輩の突っ張った姿を見ては思っていた。高校時代、そのような体験をしたおかげで、「サッカーだけ上手くてもだめだ」と悟ってしまった。

 

生きていくうえで大切な学びの多くを、サッカーを通して教えられている。現在もその途中である。分かっているつもりでも、実は何も分かっていなかったことや、人間として、サッカー選手として、「あたりまえのこと」が全然、あたりまえでなかったりする。オフ・ザ・ボール、オフ・ザ・ピッチは、ボールを保持している時以上に、重要なことである。そのことが分かっているようで分かっていない。斉藤先生はそのようなことを、僕らにサッカーを通して伝えていたのだと思う。