ニラニスタ発・蹴球思案処

蹴辞逍遥・晴蹴雨蹴

敗戦雑記

敗戦雑記

 

最高学年の3年生が1年生の時の選手権予選は、韮高は全国の切符を手にする直前まで行った。2年後、決勝の舞台のPKを見届けた部員たちは、東海甲府に準々決勝で見事に敗れ去った。全てを出し切っての惨敗だったのだろうか、それとももっと何かできたのだろうか、と今になって思う。

「勝利は選手の手柄、敗北は監督の責任」と言われてはいる。それでもすべてが監督(指導者)の責任としてしまうのは、とても危険な思想に感じる。

東海甲府戦を振り返ると、韮高は東海甲府に勝てない訳ではなかった。チャンスがあり、一方的にやれている展開ではなかった。ただ韮高の攻撃ではゴールはあまりにも遠い距離にあった。

韮高が決定機を決めきれず、流れからの攻撃でシュートで終わる攻撃はその後、激減した。こんな時はセットプレーで取れたらな~と考えていたけれど、東海DFに簡単に跳ね返され、先に触られ、CKからの得点に匂いはまったく漂わなかった。

ロングスローからの失点は、スローインから1回もグランドに落ちることなく、ボールが空中を彷徨い続け、最後に韮高のゴールの中に落ちた。

0-1になってからの攻撃は、縦に速い攻撃ではなく、イチかバチかに懸けたDFの背後に放り込むだけの攻撃に終始してしまった。敵の背後しか狙わないので、しかも縦パスはあまりにも質が悪すぎて、サッカーを習いたての小学生のようだった。もちろん放り込んだボールは、190もある東海DFに軽く跳ね返され、セカンドボールは(縦に急ぎ過ぎるので人数が足りず)回収することができず、安易に東海へとボールを渡してしまった。負のスパイラルの連続だった。ゴールは遠く、その距離は韮高が選手権出場を果たすくらい遠かった。

裏を狙い過ぎる攻撃は、韮高は裏を狙う攻撃しかないのかと思わせるほど単純に繰り返された。時折、個に頼ったタッチライン際のドリブルがあるだけだった。心に響くサッカーとは対極に位置する韮高サッカーは、時間と共に敗戦色濃くなっていった。

韮高がDFラインで回収したボールが、全くと言っていいほど、中盤の選手につながらず、またパスコースを限定された選手へとパスが渡るだけで、自軍ハーフライン前からビルドアップができなかった。東海のファーストディフェンスが良いわけではなく、また東海のプレッシングが強力な訳ではなかった。あのレベルでトレーニング以上の強度であったなら、韮高のビルドアップレベルは相当低い。それに加え、楔のパスは起点となる選手がほとんど起点とならなかった。これは東海の選手を褒めなければならず、韮高は苦し紛れの最終選択として背後へのパス(?)しか残されていなかった。

韮高の敗因は、ゴールを全員で奪うという意識に欠けていたので、それがプレーに顕著に現れてしまったように思われる。勝ちたければ、ゴールを奪いたければ、パスを送った後にそのまま攻撃に参加するだろうし、パスを受ける動きやゴールを目指す動きをもっとすると思っている。ゴールを奪う攻撃は、自分より前にいる選手に任せっきりだった。ディフェンス面では前からのプレッシングと守備意識は大前提なのに、攻撃に関してはSBのオーバーラップ(インナーラップ)、中盤の追い越す動き、3人目の動きはほぼ見られなかった。あれではFWは、前線に出鱈目に放り込まれたボールに、犬か猪のように追いまわるか、突進するしかない。圧倒的にゴールに向かう(関わる)人数が少なすぎた。ポジションにこだわり過ぎて、流動的な変化が見られなかったことは残念な事だった。

スタンドで声を出して応援していた部員は、選ばれたピッチに立つ選手のダメな動きが手に取るように認識できたと思う。とてもリアルでダメな試合の見本のようなもので、「あのような試合をしたら必ず負ける」、「ああやったら勝てない」。そう思わせてくれた試合であったように思える。

ピッチに立つ選手の誰か1人でも「丁寧につなごう」、「ボールを大切に運ぼう」と状況を分析、判断して声を掛けることができたなら、もう少し違った結果が待っていたかもしれない。

韮高の指導者は、僕が客観的に見て何かを「やらせる」とか、ただ練習をさせるだけの成り下がりの指導者ではない。選手が(現在進行形か過去形で)「自分の判断で闘うことを教えてくれた」と認知できるような導き方をしていると思う。

選手も手を抜いてやっていた選手はいないはずだし、絶対に勝つと思ってプレーしたはずで、そういったことを考慮すれば、韮高の選手は真面目過ぎて、多くを考えてしまって、なんかよく分からなくなってしまい、何をやっていいのか分からなくなってしまったと考えられなくもない。

 

選手が必死になる対象は、「指導者が言ったこと」ではなく、「自分自身」なのです。もちろん指導者が言ったことを自分で考え、納得できればそこは必死になって構いません。でもそうでないと判断すれば、「それはあくまで指導者の意見だ」として消化すればいいのです。

「育成」というのは、そういう判断が下せる選手を育てることであって、指導者が与えた練習メニューを上手にこなせる選手をつくることではありません。

風間八宏