ニラニスタ発・蹴球思案処

蹴辞逍遥・晴蹴雨蹴

自分への戒めとして

自分への戒めとして

 

不能也、不為也。

能(あた)わざるに非(あら)ざるなり、為(な)さざるなり。

できないのではない、やらないだけである。

孟子』梁恵王上

 

疲れた、眠い、だるい、面倒くさい、そういった負の意識を持つことはある。何かと理由を考えて、やろうとしない弱い自分が存在する。できないのではなく、やろうとしないだけである。疲れても、眠くても、だるくても、面倒くさくても、やっている者はやっている。普通に考えて、やっている人間がいるということは、やっていない人間は、アクションを起こしていないだけである。

 

我々はやれない理由を考える天才である

 

時間がない、忙しい、やっても無駄だ。僕自身にも当てはまるけれど、あきれるほどやれない理由を次から次へと考え出して、何もやらない。世間ではそのような言葉を「思考停止ワード」と呼んでいる。できないのではなく、やらないだけなのに、思考停止ワードを口にして、行動も止めてしまう。

 

今から2千年も前に、孟子はこのことを説いている。2千年経ってもなお人間は進歩なく、同じ悩みを抱えている。この言葉の前後の文脈から、孟子は「能力はあるが、努力して実行しようとする意志が足らない」ことをいっている。

サッカーが上手くならない(勉強ができない)のは、今よりも真剣にやろうとしないだけであり、能力がないからではない。能(あた)わざるに非(あら)ざるなり、ということなのだと分かる。

 

僕も大きな案件を抱えている。頭の中で考えていても何も始まらないと思いながら、行動するしかないと思っていながら、うだうだとしている。やれない理由を考える必要はどこにもなく、行動を起こすだけである。目的達成のために、自分を奮い立たせ、力強く行動しなければ、成功は転がり込まない。

勝つか負けるか。日々の行動が勝敗を分ける。しばし、勝負の日々を送りたい。

「能(あた)わざるに非(あら)ざるなり、為(な)さざるなり」である。