ニラニスタ発・蹴球思案処

蹴辞逍遥・晴蹴雨蹴

年末年始

年末年始

 

高校サッカー選手権が開幕し、欧州のリーグも再開した。というのも束の間、選手権は残すところ準決勝と決勝のみとなった。

年末年始でインパクトのある出来事は何だったのかを思い浮かべた時、1番に挙げられるのは、ペレの死去である。

僕はペレのプレーをギリギリ記憶に残すことのできた世代である。しっかりと記憶に刻まれているペレの試合は、釜本の引退試合である。1984年(昭和59年)夏の終わりに、国立競技場で行われた試合で、ペレのプレーをテレビ越しに観た。全盛期を通り過ぎたペレであったけれども、ペレのプレーに興奮した。ペレと同様(またはそれ以上)に、輝きを放っていたのはオベラートだった。日本サッカー氷河期時代の真っただ中に、ペレの来日は驚きの出来事だった。

 

ペレと言えば、僕の高校時代のサッカー仲間はペレに心酔していた。ビデオや本でペレのプレーを研究し、そのプレースタイルやテクニックを身に付けようと必死に練習をしていた。仲間からはミッシェル・ペレドーナと呼ばれていた時期もある。その仲間は(以前にも紹介したけれど)エテルネル・ヴェリティ諏訪というサッカースクールを運営している。年始の挨拶が心意気を感じさせる。

兎の上り坂・人間は兎より走るのが遅い、サッカースクール(教室) ヴェリティ諏訪、諏訪市、下諏訪、岡谷市、茅野市、原村,辰野選手: サッカースクール エテルネル ヴェリティ諏訪 (seesaa.net)

 

高校時代のサッカー仲間に負けずに、サッカーに真剣に挑みたいと思っている。サッカーそのものを見る角度を変えることによって、見えなかったものが見えてくる可能性がある。その1つに「臨在感的把握」という視点からサッカーを捉え直すことである。

臨在感的把握は何によって生ずるのだろうか。一口にいえば臨在感は当然の歴史的所産であり、その存在はその存在なりに意義を持つが、それは常に歴史観的把握で再把握しないと絶対化される。そして絶対化されると、自分が逆に対象に支配されてしまう、いわば「空気」の支配が起こってしまうのである。

バルセロナのポジェッションサッカーの流れからくるポジショナルプレーの再考は必要であり、自らが目指すサッカーの起点を疑うことも必要である。

 

毎年毎年、今年を漢字1文字で表すとどのような漢字かといった話題となる。僕は毎年変わらず「蹴」という漢字1文字である。それ以外にない。ワールドカップから選手権という大きなギャップが生まれる時の流れの中で、多くを考えさせられる試合と話題があり試合に直接関係のないネタがあった。

ペレかマラドーナか、マラドーナかメッシか、ゾーンかマンツーか、3バックか4バックか、良い選手か悪い選手か、攻撃か守備か。1年間ゆるやかな厳しさをもって思案をしていきたい。