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『ペレのサッカー』

サッカー本 0074

 

『ペレのサッカー』

 

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著 者 エドソン・ペレ

訳 者 牛木素吉郎、ブラビス・インターナショナル

発行所 講談社

1975年11月30日発行

 

高校時代に買った本である。ちょっと前に紹介した高校時代のサッカー仲間がサッカーを語る時、主語はいつも「ペレは・・・」から始まった。サッカーのプレーの価値基準としてペレの存在が常にあった。30年ぶりに奥の本棚より探し出し再読した。訳者は牛木素吉郎である。僕は長い間、牛木素吉郎がサッカーマガジンで連載していた「ビバ・サッカー」を読むことをいつも楽しみにしていた。まさかこの本の翻訳をしているとは、再発見で純粋にうれしい。

 

本の一番初めのペレの献辞文が趣ある。

アンブロジーナおばさん

私のプレーを見に、一度もグランドへ来たことのない、あなたに

この本を捧げます。

冒頭からペレの生い立ちについて、ペレのお父さんが「わが息子=ペレ」で長い文章を書いている。有名になった選手の父親が文章を寄稿することはめったにない。そしてその子供がペレとなればまた特別である。そしてそれを読むと、ペレのお父さんはどこにでもいるお父さんと一緒で特別なところはない。

 

次に、ペレ本人の「はじめに」が次に登場する。

ときどき、私は考え込んでしまうことがある。自分自身のことについて、われわれを取りまく世界について、また、神について。

われわれは、果たして、人のいうような者であろうか?

ときには、私は、人びとがいうような人間ではない、と考える。

また、あるときには、人びとのいう通りだ、とも思う。

小説の書き出しのように文学的である。

この本の日本語版出版に当たり、サッカーの神様ペレがと特別に書いている「日本のみなさんへ」が続き、この本の協力者であるジュリオ・マゼイ教授の「ペレという人間」があり、ようやく本文へとつながっていく。

 

この本は、文章はもちろんプレーの写真が(キーパーを除いて)すべてペレ本人となっていることが特徴である。リフティングから始まり、パス、ヘディング、シュート、フェイント、ドリブルすべてペレである。とても説得力があり一種、写真集といっても良いくらいの量がある。

またこの本は、世間にたくさんあふれているサッカーの指南書ではない。ペレの人間味が感じられ、基礎技術のポイントもペレ本人の言葉として伝わってくる。ペレの存在そのものがそうさせているかもしれないけれど、この本には深みがあり、重みがあると思う。その一因として、訳者の牛木素吉朗の存在はとても大きい。訳者の牛木素吉朗をさすがと言うほかない本の作り方である。訳者の思い入れもひしひしと伝わってくる。

 

ペレの素直で直接的な言葉は深く突き刺さる。

この解説書を読み、あまり新しいものに出会わないので、がっかりされている方も、いるかも知れない。

サッカーは、本質的に、単純なスポーツである。私たちは、しばしば、この単純さを忘れる。

 

君たちは、私が小学校を終えただけで、サッカーのために学業を中止したことを聞いているだろうと思う。そう。確かにその通りだった。そのころの私には、勉強がどんなに大切か、分からなかったのだ。サッカーがすべてであると、思い込んでいたのだ。いまになって、はじめて母のセレステがいつもいっていた言葉を痛切に理解できるようになった。「ペレ、そのボールをちょっとだけ置いて、宿題をしに来なさい」

君も知っての通り、母の忠告にもかかわらず、私は人生と時間をサッカーのために使った。長い年月を経て、母のいった通りであることが分かった。私は勉強しなければならなかった。サッカーだけでは、じゅうぶんではなかった。そこで私は、中学と高校のコースを検定でとり、大学へ行って体育の過程を修了した。

そういうわけだから、私は君たちに繰り返していいたい。「勉強とスポーツは両立できるし、両方の分野で成功できる。いや、さらにいえば、できるだけではなく、させなければならないのだ!」