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サッカーを「みる」

サッカーを「みる」

 

サッカー観戦、サッカー応援は、コロナの影響を受け全世界で制限がかけられ、以前のようなスタイルに未だ戻っていない。Jリーグではルールを無視して赤いチームのサポーターが暴走した。Jリーグに限らず、アマチュアレベルでも度を越した応援風景を目にする事がある。

 

現在、サッカー(スポーツ)との関わり方として、自らがプレーするよりも、「みる」という立場の方が圧倒的に多い。サッカーが日本でも認知され、知名度を上げてきたことに比例して、選手のプレーレベルも上がっている。日本代表は欧州で活躍する選手が100%に近くなってきていることからも、日本のサッカーレベルは上がっている。

その一方で、「みる」立場としてのレベルは、「する」側ほどに上がっていない。心無いサポーターから、バカ親まで、目を覆いたくなるような情景がある。残念なことに、子供には見せてはいけない悪い手本になっている親もいる。サッカーを支える側として、使命とまではいかないまでも、その役割を意識することは大切であると思う。

 

「子どものサッカーに関わる大人の皆さんへ」という冊子が日本サッカー協会から出ている。協会のHPからもダウンロードできるので、小学生から高校までの子どもを持つ親は一読を勧めたい。とは言うものの、読んでもらいたい親に限って読むことはなく、読む必要のない良識ある親が読むという人の世が存在する。

ジュニア、ジュニアユース、ユースにおける各チームで、親の観戦マナーを啓蒙しているチームは少なくない。応援する保護者が成長することは、選手を後押しする。デンマークのサッカー協会の保護者向けの10か条は誰でも一度は目にしたことがあるくらい有名である。

 

JFA発行の冊子に載っている、スイスサッカー協会のパパへの手紙も、子供のサポートを勘違いしている親には読むことを薦める内容である。

近代スポーツが選手(見られる側)と観戦(見る側)の分離を生み出したと言われるが、そのどちらもスポーツとのかかわり方であり、それらはスポーツ文化を「支える」行為として欠かせない。しかし、スポーツを「する」ことの教育や指導はされても、「みる」こと、すなわちスポーツの観戦力に関しては、「する」ことを通して付随的に養われるものとして扱われ、体系立った指導はされていない。音楽教育でその柱として「鑑賞の能力」を理論として学ぶ学習が求められているのと同じように、体育もスポーツの鑑賞力を養う場として教室で行う体育理論の授業が位置づけられる必要がある。それにより、たとえ自分でプレイできなくとも、スポーツの鑑賞力を身につけると、「みる」立場もスポーツを支える重要な存在であることを知る。

 

子どもが日々成長しているのと同じように、保護者も「見る」レベルを上げることが求められる。なおかつ成長の速度を上げることも求められる。そうすれば、子供が所属するチームの質も向上し、日本のサッカーのレベルもランクアップへとつながっていく。世界のサッカーに追いつくには、サッカーを「する」現場だけでは、絶対に無理である。