ニラニスタ発・蹴球思案処

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考えることへのきっかけ

考えることへのきっかけ

 

個人的には、本当に多くのことを考えさせられる週末となった。

 

パスカルは「人間は考える葦である」という言葉を残した。人間は弱い存在ではあるものの、「考えることこそ人間に与えられた偉大な力である」と記している。

ある哲学者は「人間はものを考えないですむ生活を目指して生きている」とも言っている。人間は考えてばかりでは生きて行けず、だからこそ人間は考えないですむような習慣を創造し続けている。ある一定の習慣を創り出していけば、考えるという煩雑な過程から解放され、単純な生活環境となる。本来、人間はめったにものを考えたりしないそうである。人間がものを考えるのは、仕方なく、強制されてのことであり、考えようという気持ちが高まってものを考えるのではなく、何かショックを受けてようやく考えるとのことである。

 

僕個人的には、考えることが好きな方ではある。自ら自発的に、例えば「どうしたら勝てるのか」とか「どうしたらうまくなるのか」とかを考える。考えるとかいうと難しく捉えてしまうので、ああでもない、こうでもないと思案するという言葉の方がしっくりくる。それはそれでおいておいて、様々な敗戦や負けが重なると、必然的に考えざるを得なくなる。ものを考えるとは、(大げさに言えば)それまでの自分の生を導いてくれた習慣が、多かれ少なかれ破壊される過程と考えることができる。

後ろ向きにせよ、前向きにせよ、内に向かう思考か外に向かう思考かはそれほど関係なく、試合の結果は深く考えさせられる現実である。より良く生きてい行く上での、考えることへのきっかけとなる。その契機をやはり大切にしていかなければならないと思う。

 

もう1つ、「悔しい」と感じる感情である。悔しさや悔いが残るのは、自分の力が発揮できなかった時であり、未熟さゆえに失敗してしまった時である。もちろんライバルが成功した時もその感情は湧き上がる。普通に考えれば、悔しいという感情は、常に向上心を持ち続けている人間が抱く感情であり、成長には絶対的に欠かせない感情である。そのような意味では、悔しさという感情を抱く人間は、これまでがんばってきた証の感情であると言える。その悔しいという感情をどのように消化、昇華していくかである。「悔しい」と感じるその「悔しさ」の感情の意味を客観的に、具体的に考えることは、今後の生き方の方向性を形づける。哲学的に、あるいは心理学的にその感情を考察することは必要であると思う。

 

サッカーはより良く生きるための人生に通じている。もちろんサッカーだけではより良く生きることはできない。それでもサッカーから多くを考えさせられ、学ぶことは多い。もうすぐ4年に1度のワールドカップが始まる。思考をワールドカップモード仕様にシフトチェンジして、負のパワーを取り去って、愉しみに準備したい。W杯そのものを、気持ち新たに考えることのきっかけとしたい。

サッカー選手は考える葦なのか。

考えることが昔以上に求められるサッカー界である。

 

 

これまで(ここまで)の結果は

強いチームになるための

始まりである