ニラニスタ発・蹴球思案処

蹴辞逍遥・晴蹴雨蹴

サッカーと三島由紀夫

サッカーと三島由紀夫

 

赤穂浪士の討ち入りの日やジョン・レノンの命日を知る人は少なくない。ジョン・レノンは今年生誕80年、没後40年だった。今年は三島由紀夫の命日も特別だった。今年は生誕95年、没後50年にあたり、改めて三島由紀夫に接するには良い機会だった。

三島由紀夫というと『仮面の告白』、『潮騒』、『金閣寺』、『豊饒の海』など多くの名作があるけれど、サッカーに関連付けられるとすれば、三島由紀夫の思想だと思う。数ある思想の中でも「死に対する思想」がサッカーと大きく結び付けられるような気がする。

三島由紀夫の著書に『葉隠入門』がある。『葉隠』は山本常朝の座談を筆録した書物である。「武士道といふは、死ぬ事を見付けたり」という有名な言葉のある『葉隠』を三島由紀夫は「わたしのただ1冊の本」として心酔した。その書物の入門書として三島由紀夫が著したのが『葉隠入門』である。三島由紀夫は『葉隠』を哲学書と見れば、「行動哲学」、「生きた哲学」という特色を持っていると著している。

一定の条件下に置かれた人間の行動の神髄の根拠をどこに求めるかということに、「葉隠」はすべてをかけているのである。

高校サッカーと限定するならば、3年間の気持ちの持ち方、心の拠り所としては、このような行動哲学でもって取り組むことも1つである。そしてこのような時代だからこそ、自らを律し、自らを奮い立たせるには、素晴らしい思想であると考える。

「死が生の前提となる緊張した状態」でサッカー生活に挑んでもいいのではないかと考えている。韮高サッカー部は長い年月選手権に出場していない。近年は本来持つ力を出し切らないで敗れ去っている。惨めな試合の結末が多すぎる。「負けたら終わり」という緊張感がその試合にだけ芽生え、力を出し切ることはできない。負けは死を意味する。日々のトレーニングで常に危機感を持ち、死を見据えて取り組むことができれば、そう簡単に散らないし、散り際も惨めでもない。

もし読もうと考えるなら、サッカー的な読み方として、「死」という言葉を「負け・敗戦」と置き換えて目を通せば、リアルにその負け様が想像できる。先輩たちの最後の試合となってしまった選手権での試合、敗戦の姿を日々思い描くことができたならば、無駄にできる時間はないと思えるに違いない。

 

現代社会では、死はどういう意味を持っているかは、いつも忘れられている。いや、忘れられているのではなくて、直面することを避けられている。

 

 

追悼 パオロ・ロッシ

追悼 パオロ・ロッシ

 

マラドーナに続き、イタリアの英雄パオロ・ロッシが逝去した。82年スペインW杯でイタリアに2回目の優勝をもたらした立役者であった。

3-2というスコアでW杯の名勝負といったら94年アメリカW杯準決勝のブラジル-オランダとか、最近では記憶に新しい日本-ベルギーとかがあるけれど、なんと言っても82年スペインW杯2次リーグのイタリア-ブラジルの3-2の試合は壮絶だった。イタリアの3得点すべてをパオロ・ロッシが挙げた。パオロ・ロッシが先制し、ソクラテスが同点にして、またパオロ・ロッシが突き放し、ファルカンがまた同点にして、最後にパオロ・ロッシが3点目挙げた。黄金のカルテッドと呼ばれるジーコファルカンソクラテストニーニョセレーゾの中盤の4人は歴代ブラジルの中でも最強の中盤だった。そのブラジル相手にハットトリックを成し遂げたアズーリの伝説の20番がパオロ・ロッシだった。八百長疑惑のために2年間の出場停止明けでのワールドカップで、イタリアを優勝に導き、自らは得点王となった。

プレースタイルは変幻自在で、ゴール前では予想もつかないところに現れてゴールを奪ったストライカーだった。「なんでそこにいるの」という絶妙なポジショニングは感覚的なものであり、その嗅覚は抜群だった。

もちろんゲルト・ミュラーとかマリオ・ケンペスだとか伝説的なストライカーはいたけれど、僕の中では最初に衝撃を受けたゴールゲッターは、パオロ・ロッシだった。個人的にイタリア代表はヨーロッパの中でも1番好きなナショナルチームなので、日本代表より応援する。カテナチオと呼ばれ守備的なイメージのあるアズーリであるものの、決めるところで決めきれる魅力的なFWがいるのもアズーリの強みである。パオロ・ロッシからイタリアのストライカーの系譜をたどると、しっかりと記憶に刻まれたFWの選手が次々に浮かぶ。デルピエロは言うまでもなく、スキラッチインザーギマッサーロ、ジラルデーノ、ディ・ナターレカッサーノシニョーリと、泥臭いゴールでもなぜか芸術的ゴールに見えてしまうプレースタイルがたまらない。敏捷性、ひらめき、器用さそして決定力は、そのプレーを見ていつもゾクゾクとした。トーニやビエリのような力強さはない反面、プレーのしなやかさや自らがもつプレーのイメージは素晴らしく共感できた。そして真似ができそうでできないゴールセンスは独特のものがあった。

生涯、勝敗に直結するポジションでプレーしてきたパオロ・ロッシの晩年はどのようであったろうと想像する。また自分自身もパオロ・ロッシがいなかったらまた違った別のサッカー人生になっただろうと思う。


Paolo Rossi | FIFA Classic Player

 

 

ユースリーグ 最終節 韮崎-航空 第1節 韮崎-日大明誠

ユースリーグ 最終節 韮崎-航空 第1節 韮崎-日大明誠

 

結果

12月24日(土)10:00キックオフ 日本航空

韮 崎 1-1(0-0) 日本航空

 

12月25日(日)10:00キックオフ GF穂坂G

韮 崎 1-0(0-0) 日大明誠

 

第9節の日本航空戦が最終節だと思っていたら、第1節の明誠戦が雷のために延期となっていて、連戦での試合となった。

航空戦は先制したものの、最後の最後に追いつかれてしまい、ドローとなってしまった。

明誠戦は最後の最後でCKから劇的なゴールを決め、1-0で勝利をもぎ取った。

どちらも3年生が最後までしっかりとプレーをして、高校生活の公式戦を終えた。3年生にとっては、高校生活最後の公式戦を笑顔で締めくくったことは、素晴らしい思い出である。それと同時に、韮高サッカー部にとってもかつてない記録を打ち立てた。毎年、毎年、終わりは突然やってきていて、くやしさだとかやりきれなさだとかがドバドバと出ている。今年は選手権の夢は絶たれてしまったものの、ユースリーグを3年生が最後まで戦い続けた。終わりが決まっている試合に勝利で終えることができたのは、韮高サッカー部史上初めてのことではないだろうか。勝っても負けても高校生活最後の試合で、泣いても笑ってもこれで終わりという試合は、第61回全国高校サッカー選手権大会決勝の韮崎-清水東が最後の記録である。それから現在まで、高校サッカー生活は望みもしない形で終結している。先につながる選手権の途中で突然終わっていて、予期せぬ終止符を打たざるを得ない結末を迎え続けている。そんな中、今年は違った。選手権という大会は終わっても、ユースリーグという公式戦は関係なく日程が組まれている。引退をしないで、3年生だけでしっかり結果を残し、勝利で飾ることができたことは、韮高サッカー部創部以来、初めてのことではないだろうか。笑って最後を締めくくることができた年代であるので、とても歴史深い試合だったと感じてしまう。それに加えて無観客の試合だったということが、さらに深みを与える。韮高サッカー部の明るい未来と進化の可能性を確信できる終わり方であったと思う。目には見えないけれど、力強いたくさんのモノを残したと思う。

f:id:nirasakishikibu:20201209220929j:plain

 

『メキシコの青い空』実況席のサッカー20年

サッカー本 0072

 

『メキシコの青い空』実況席のサッカー20年

f:id:nirasakishikibu:20201205205436j:plain

著 者 山本 浩

発行所 新潮社

2007年8月30日発行

 

日本サッカーを人の成長に例えるならば、ダイアモンドサッカーの時代は幼少時代。メキシコW杯アジア予選からフランスW杯初出場、02W杯自国開催までが青年時代と言えることができる。数々の挫折や敗北と付き合いながら少しずつ成功体験を積み上げてきた青年時代に、日本代表の試合の実況を担当してきたのが山本浩である。

日本サッカーの夜明け前から日の出まで、僕らは山本浩の静かでそれでいて力強い実況の声と共に日本代表の試合を観てきた。この本は85年W杯メキシコ大会アジア最終予選の日本-韓国戦から、06年W杯ドイツ大会決勝イタリア-フランスまでの著者の実況の思い出と、実況の名言録が綴られている。

 

1985年10月26日、当時、日本が史上もっともW杯に近づいた1戦である。この本のタイトルが『メキシコの青い空』になるほど思い入れの強い試合であり、山本浩の実況の声が耳に懐かしく響いてくる。

 

東京・千駄ヶ谷の国立競技場の曇り空の向こうに、

メキシコの青い空が近づいているような気がします。

 

本大会は著者にとって初めての実況であり、15試合を実況した(当時、日本ではNHKが17試合放送しただけだった)。伝説の5人抜きの実況ももちろん山本浩、そして解説は岡野俊一郎だった。

 

メキシコの青い空以来、日本のサッカーファンは山本浩の名実況と共にサッカーを見続けることとなる。

1993年5月15日、Jリーグ開幕戦

声は、大地からわき上がっています。新しい時代の到来を求める声です。すべての人を魅了する夢、Jリーグ。夢を紡ぐ男たちは揃いました。今、そこに、開幕の足音が聞こえます。1993年5月15日。ヴェルディ川崎横浜マリノス。宿命の対決で幕は上がりました。

 

J開幕の年の秋には、ドーハの悲劇と呼ばれるイラク戦も実況している。そしてすぐにアトランタ五輪予選が始まる。著者が綴っている通り、サッカー界にとっての「悲願」というのがいったい何をさすのか。それは長い間、五輪への出場を意味していた。

 

1996年3月24日 アトランタ五輪アジア地区最終予選 日本-サウジアラビア

今、決まった。笛、笛です。ニッポン勝利の笛。

アトランタに向かって、28年の長い歳月を超えた笛が、今ニッポンの上に吹かれました。2-1。サウジを下しました。

 

1997年9月7日 W杯フランス大会アジア地区最終予選 日本-ウズベキスタン

あれから、4年の歳月が流れました。胸に宿るものが、今またこの瞬間に燃え上がろうとしています。国立競技場い吹いているのは、西からの湿り気を含んだ風。遥かにフランスを想いながら、長い戦いのはじまりです。

 

W杯初出場を勝ち獲るジョホールバルの歓喜の実況は、歴史に残る名実況である。1-1で延長戦に突入する前の実況は、今でも深く心に刻まれている。

1997年11月16日 W杯フランス大会アジア地区第三代表決定戦 日本-イラン

このピッチの上、円陣を組んで、

今、散った日本代表は、

私達にとっては「彼ら」ではありません。

これは「私達」そのものです。

 

 

同時代を生きてきた人にとっては、当時の記憶が蘇る本であり、その時代を知らない人にとっては、追体験と疑似体験ができる完成度が突き抜けている本である。

f:id:nirasakishikibu:20201205205751j:plain

 

 

 

マラドーナ体験

マラドーナ体験

 

マラドーナが急逝してからというもの多くの記事を目にし、または意識的に記事を読み、母国アルゼンチンのみならず、全世界に大きな影響を与えたサッカー選手だったなぁと今更ながら痛感している。

 

10代という極めて濃縮されたサッカー生活の中で、マラドーナの占める割合はかなりのものだった。僕がマラドーナを意識したのは、プレーでもなく雑誌の記事やスポーツニュースではなかった。80年代前半のプーマのスパイクである。マラドーナはプーマのスパイクを愛用したので、プーマのスパイクは選びようのないくらいマラドーナシリーズだったと言っていい。マラドーナモデルのスパイクは、外側サイドにはマラドーナのサインがあり、ベロにはマラドーナの顔があった。マラドーナ10、マラドーナスーパー、マラドーナナポリマラドーナキング、マラドーナチャンプと、ちょっと思い浮かべただけでも当時のプーマのスパイクの勢いが分かる。

 

82年スペインワールドカップ、2次リーグでのアルゼンチン-ブラジルの試合でマラドーナは退場してしまった。残念ながらその時のリアルタイムでの記憶は残っていない。ブラジルとアルゼンチンの試合を見てみたいとその時から思いはじめ、その対決が実現したのは8年後の90年イタリアワールドカップ決勝トーナメント1回戦だった。マラドーナのスルーパスは、カニージャへ渡り、決勝点となった。

 

僕に世界の扉を開いて見せてくれたのは、86年メキシコワールドカップマラドーナだった。キャプテン翼ではない、現実のワールドカップをテレビの前で見られたことは大きな財産となった。振り返ればマラドーナの大会であったと言えるけれど、マラドーナのプレーはその当時高校生だった僕に(良い意味で)大きな傷を残した。その傷跡は今でも生き続けている。

 

語り継がれる「神の手」ゴール、そして「5人抜き」ゴールをリアルタイムで目にした時の衝撃は今でも忘れられない。それと共に、ワールドカップの歴史の中でも伝説のゴールになるという直観があった。テレビの前でマラドーナのプレーに釘付けになった何十億人の中の1人であるけれど、5人抜きゴールを目撃してしまった1人でもあること、生涯にわたりこのゴールを見たことを誇りに思えた瞬間であった。

 

僕の大好きな作家にポール・オースターがいる。オースターの作品の中に『ムーン・パレス』という小説がある。

それは人類がはじめて月を歩いた夏だった。

このような書き出しでこの小説が始まる。20代の頃、僕が小説を書こうとするならば、書き出しは『ムーン・パレス』の書き出しをパクッて「それはマラドーナが5人抜きをしてゴールを決めた夏だった」に決めていた。マラドーナの伝説のゴールは、記憶の奥底でもなお衝撃的で喚起力がある。

 

ルコックのユニホームは今も変わらず強烈で、マラドーナのひもの結び方も独特だった。神が舞い降りたような芸術的なプレーとゴール。現在では、枕詞に「神の子」とつけないとマラドーナではない気さえする。敗れた試合後の潔さの対極の表情とコメントは大人げないながらも愛着を感じた。はるか遠くの存在でありながら、とても身近に感じられたサッカー選手であったように思う。僕にとってアルゼンチンという国は「母を訪ねて3千里」ではなく、マラドーナの国である。