ニラニスタ発・蹴球思案処

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懐かしい未来

懐かしい未来

 

第100回全国高校サッカー選手権大会が終わった。100回の記念大会だけあって、開催前から大きく盛り上がった。特に日本テレビの選手権サイトには、お世話になった。

僕のサッカー仲間は、地区予選決勝をすべて見た。その感想と予想を借用する。

第100回全国高校サッカー県予選、48試合観戦ス

第100回全国高校サッカーの地方大会の県予選、全48試合を見終わりました。我ながら、すごい、じゃなくてヒマです。

せっかくなので、感想を残しておきます。

1  ハラハラどきどきの試合 韮崎VS山梨学院 

 録画した試合はまだ見てません。見られません。

2  面白かった試合 前橋育英VS桐生一 

 シュート数が一番多かった。攻撃的サッカー でした。

3  すごいチーム 静岡学園 藤枝東へのプレスが半端ない

4  好プレー 神奈川 相洋高の後藤選手 

 桐光学園の俊足選手を追いかけ、見事、シュートをブロック。

5 一番将来性を感じた選手 福田師王(神村学園) 

 まだ2年生。プレーも名前もスゴイ。

6  解説者 群馬大会 大学の後輩が二人

 岩政大樹さんと同級生の中島さんのW解説でした。

7  因縁 大分大会 両チームの監督と解説者の先生

 3人は31年前、同じ高校(サッカー部がない)に勤務してました。

8  恒例ベスト8予想 勝負はやってみないと分かりませんが・・・

 優勝?この8校の中から出るでしょう。

 大津VS前橋育英   静岡学園V瀬戸内  

 神村学園VS仙台育英 東山VS青森山田

 

ちなみに僕は、日テレの選手権サイトで、第55回大会から前回大会までのダイジェストをゆっくりと堪能して見た。小学校から今までの自分の思い出とシンクロさせながら、時に忘れていた記憶も蘇りながら、楽しくもくやしさがこみ上げる気持ちも味わった。どの試合も思い出深いし、当時の選手も懐かしかった。

動画一覧(過去全国大会決勝)|第100回全国高校サッカー選手権大会|日本テレビ (ntv.co.jp)

 

そんな中、韮崎に生まれ育った僕としては、韮高の試合を1番に上げることは当然である。何回見てもくやしさの込み上げる無念さの残る試合である。


www.youtube.com


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40年以上も前の試合の映像を見ることのできる恩恵を感じるほかはない。母校の他、応援している高校が負ける姿はリアルに悲しい。まったくもって往生際の悪さと、敗者としての勝者へのリスペクトに欠く自分自身が情けない。

 

過去を振り返りながら、懐かしい未来に向けて、歩みを進めるほかはない。重みのある節目の100回大会だったと改めて感じる。新国立競技場にもなったし、101回目からの出発は、想像もできない選手権になる覚悟だけはしておいた方がいいかもしれない。

 

 

 

追悼 小嶺先生 小嶺本3冊

サッカー本 0089

小嶺忠敏 3冊

 

高校サッカー界の名将、小嶺忠敏先生が死去した。ご冥福をお祈りすると共に、小嶺先生の本を紹介する。

『動 小嶺忠敏のサッカー熱い風』

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著 者 大貫哲義

発行所 日本テレビ放送網株式会社

1992年3月25日発行

 

『国見発 サッカーで「人」を育てる』

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著 者 小峰忠敏

発行所 日本放送出版協会

2004年8月10日発行

 

小嶺忠敏 情熱サッカー主義』

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著 者 田中 耕

発行所 西日本出版社

2005年7月29日発行

 

小嶺先生の訃報を知り、改めて本を開いた。自分の知らないところで、小嶺先生の人間教育に重きを置く指導理念だったり、サッカーに向き合う姿勢や考え方にかなり影響されているなと感じた。無意識に血となり肉となっていて、僕が口にしたり文章にしたりする言葉は、小嶺先生の言っていることの二番煎じであると思える。

 

小嶺先生が全国区になってからは、多くの元Jリーガーの話や取材の記録が残っているので、教員になるまでの小嶺先生について僕の好きな所を記す。

 

小嶺は、父忠則、母ミツキの末っ子として生まれた。生家は農家で、兄4人、姉2人の7人兄弟であった。

忠則は、小嶺が母の胎内にあるうちに、第二次世界大戦のために召集され、沖縄決戦に参加し玉砕した。父の戦死後、3か月して小嶺が生まれた。

 

小嶺家は大国柱を失い、敗戦後の農地改革で農地の大半を取られてしまい、母1人だけでは農業をやっていけないために、長男が高校を中退して農業の手伝いをした。次男、3男、4男、姉2人は中学を卒業し、就職をする。兄たちが忠敏だけは高校にやってやろうと決断した。

 

島原商に進学した小嶺先生は、3年生の時に運命的な出会いをすることになる。合宿で島原に来ていた大商大の上田監督の目に止まり、大学に勧誘された。就職をするつもりでいた小嶺監督の心が揺らいだ。

 

「いいか忠敏、兄ちゃんたちも姉ちゃんたちも、誰一人、高校に行かんと働いてくれてるんだ。いつまでも甘えてるんじゃない」

母には他の兄弟たちへの気兼ねがあった。大学へ進ませてやりたくても、行きな、といえる立場ではなかった。

それは小嶺にも分かっていた。が、それこそ、サッカーを続けられる可能性が1%でもあるなら、粘ってみたい心境だった。

「なあ、母ちゃん。せっかく大学の先生が誘ってくれたんだ。どっか見所があってのことだろう。出来るかどうか考えてみようじゃないか。兄ちゃんに任しといてくれ」

長男の一人(かずと)が前向きの気持ちを見せてくれた。それで母も折れた。

 

小嶺先生が人生の師と仰ぐ大商大の上田亮三郎との運命的出会いが実現し、さらにサッカーに情熱を注ぐことになる。大学卒業後に母校に赴任しサッカー部のコーチとなる。監督は大商大の上田亮三郎と大学時代の同級生であり、恩師でもある瀬戸哲だった。

サッカー熱はさらに増し、2年後にはJFA主催の第1回コーチングスクールに参加する。そこでも運命的な出会いを果たすことになる。同部屋になったのは静岡の堀田哲爾先生と静学の井田勝通先生だった。その2年後にはヨーロッパ研修ツアーに参加し、さらに親交を深めた。井田先生とはヨーロッパ研修でも同室だった。

 

私財を投げ打ってマイクロバスを買った話(1978年当時、325万円で購入したマイクロバスの写真が載っている)、遠征でのエピソード(相手校のグランド隅でご飯を炊いたり、寺に泊まらせてもらったり、風呂に入れなかったのでバスの中の匂いが半端なかった)、寮の話(自宅での寮から始まり、廃業した病院を借りたり、マイクロバスでの送り迎えだったり、烏兎寮になるまでのことだったり)と直接はサッカーに関係ない多くの苦労話が載っている。

 

私は教え子の面倒はとことん見てきましたが、自分の3人の娘に関しては、1度も風呂に入れたことがなければ、運動会も授業参観も行ったことがありませんでした。なにしろ朝も夜も、平日も日曜も、盆も正月も家にいないのですから。学校が試験中、練習がないので早く家に帰ったら、娘から「お父さん、どうしたの。具合悪いと?」と聞かれたこともありました。家族旅行もしたことがなく、家庭教育に関しては、本当に父親失格です。でも、私の育った環境もそうでしたが、親が自分の働く姿を見せることが「最高の教育」だと思っています。

いま振り返ってみると、妻には子育ての面でも、寮母としても苦労をかけた。本当に感謝することばかりです。

 

 

 

年頭所感

年頭所感

 

良くも悪くも新しい年はやって来る。サッカーと新しい年の組み合わせは、あまりぱっとしない。欧州ではシーズン途中だし、日本では元旦が天皇杯決勝(近年不安定)であったり、高校サッカーは年をまたいでの選手権開催中である。新しい年に関係なく、勝者と敗者が生まれる。

論語』の中の名言を座右の銘にしている人は多い。10人いれば10人とも異なった解釈ができる許容範囲が広い名著である。『論語』とサッカーを結び付けて所感としたい。

 

見義不為無勇也

義を見て為ざるは、勇無きなり。

ぎをみてなさざるはゆうなきなり

 

サッカー選手として、やらなければならないこと、上達するにあたり絶対にすべきことはたくさんある。やらなくてはいけないと分かっていてやらないのは、自分対しても仲間に対しても失礼である。自らの意思の弱さからくる妥協や先延ばしは、目標を高く掲げるサッカー選手にとって致命的である。「勇無き」である。自らがアクションを起こすことが第1であるけれど、指導者から言われて、仲間から言われてアクションを起こすことができれば、第2となる。

自らが気付くことができる選手が多ければ多いほど、レベルの高い良いチームとなる。試合中の攻守の仲間のサポートとフォロー、守備におけるリスクマネッジメント、スペースやパスコースの気付きは、ベンチから言われてからの選手と自らが気付いてできる選手ではどちらが優れた選手なのかは誰でもわかる。そのような意味において、自ら気付くことのできる選手は少なくなっているように感じる。

「義を見て為さざる」は、自分以外のことに関しても言える。試合中の仲間への指示は絶対だろう。勝利を目指して、または目標の実現のために、チームメイトが手を抜いている時や、モチベーションが低い時には、仲間としてしっかりと言葉で表現してやらなければならない。そして困っている仲間がいたら、手を差し伸べることもこの中に含まれる。分かっていて何もしないのは、「勇無き」である。常に全力を出せるチームであるには、そういった部分も必要である。

 

もちろん、間違いはある。自分の行動がすべて正しいとは限らない。ホッとすることに、サッカーはミスのスポーツである。上手くいかないことの方が多い。ミスをした後のリカバリーが重要になってくる。『論語』から引用すれば、

 

過而不改 是謂過矣

過ちて改めざる、是れを過ちと謂う。

あやまちてあらためざる、これあやまちという。

 

となる。有名な深い言葉である。サッカーにもそのまま当てはまる。僕はこの名言より、ミスの多いサッカーならば、違った孔子の言葉の方がしっくりくる。

 

過則勿憚改

過ちては則ち改むるに憚ることなかれ

あやまちてはあらたむるにはばかることなかれ

 

試合中、ミスをする。そのミスを躊躇することなくすぐに認め、勝利のためのアクションを起こすことである。悔しがってピッチに倒れていたり、審判に文句を言っていたら終わりである。ピッチ外の人間関係も同じである。サッカーは人間がするスポーツある。サッカーをする人間のレベルが上がれば、確実にチーム力は上がる。常にチャレンジをしながら、間違ってしまったら「改むるに憚ることなかれ」である。良い雰囲気を持った集団であれば、良い結果がついてくる。たとえ思い描いた結果でなくても、そのような集団ならば、次につながる何かが残る。

 

 

 

学びの途中

学びの途中

 

日常やサッカーを取りまく状況が、目まぐるしく、華やかに動いている中で、一人静かに好奇心に突き動かされながら、ページをめくることもありである。まだ学びの途中で、自分の言葉で上手く表現できないので、勝手ながら原文のままではなく、サッカーに置き換えて書写のまねごとをする。

「なぜサッカーをやるのか」と「いかにサッカーをやるのか」という視点でサッカーを思案する。

「なぜサッカーをするのか」というお題については、「サッカーは目的的行動を自己目的的行動にまで、自らの意思で高めようとする行動である」となる。自己目的的行動の深堀については、学びの途中である。

一方の「いかにサッカーをやるのか」については、最終的には勝利をめざすけれど、日常のトレーニングという積み重ねのプロセスを大切にすることである。

 

最近のスポーツは国際的に、目的を達成するためにはどんな方法と手段を選ぶべきかという研究が始まってきた。サッカーにおける各種のプレーはゴールをとるための技術であり、チームの戦術もまたゴールをとるための技術である。そしてこれらの技術はその根底に裏付けとなる理論を持っている。理論的に研究された技術がこの理論指導で教えられ、トレーニングによって実験され、反省し吟味し再組織されて、熟練技術として戦法的に練習され、反省、検証、再組織を繰り返しながら進歩していく。こうしたサッカーへの理論注入こそ、現代サッカーの特徴であり、こうした過程をたどって、勝利を目的として真剣に練習されているのである。

こうした戦術、技術、トーレニングへの理論の注入はとかく若いプレーヤーの陥りやすい衝動的なプレーを知性的プレーへと導く第一歩であり、サッカーこそ知性的行動だということを認識させ、選手達を向上と進歩へと導いていく。選手が衝動的行動から知性的行動へ進んでいく最も確実な方法は、ある目的を設定しその目的を達成するために、各種の情報を収集して理論を構築し、それを実験して反省し吟味し再組織した理論を繰り返し実験していく過程である。ここにサッカーを行う教育的価値の一つを見出すのである。サッカーをやる楽しさの一つは、ただサッカーが面白いからではなく、自分が考えた理論的技術が練習によって熟練的技術に向上し、それがゲームにおいて有効に実証されるという研究努力の累積による完成の楽しみなのである。

 

時間があるからやるのか、時間がないときだからこそやるのか、学びの姿勢は常に心得たい所作である。何かのためになるからやるのではなく、自分の内から湧き上がる純粋な好奇心や探究心からのアクションを起こしたい。自分のそういった部分に素直に向き合うことは、これからの時代にはもっと重要になる。

2021ルーキーリーグ

2021ルーキーリーグ

 

2021年ルーキーリーグが終了した。コロナの影響を受けたものの、リーグ戦の全ての高校と対戦することができた。戦績は2勝4敗3分、得点11失点14、順位7位だった。たった2勝しかできない現実がある。

関東Rookie LeagueU-16 ルーキーリーグ公式HP (rookie-kanto.com)

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すでに闘いは始まっている。ライバル、そして自分自身との闘いはこれからも続く。納得いくプレーが出来た選手、出来なかった選手、試合に出場した選手、試合に出場していない選手とその差は小さいようで大きい。上手な選手が出場するのは平等な競争社会である。下手な選手を平等に扱うのは不平等である。努力のギヤを上げなければ、ずっと上には上がれない。高校生活のサッカーを通じて厳しさを味わい、その厳しさを乗り越えることは、自己の成長につながる。人間的成長がサッカーの成長につながる。まずは自分の生活、サッカーで甘えている部分、甘さがある部分を抽出し、断ち切る事である。そして自分を信じることである。納得いく結果はすぐには出ることはなく、目に見える成果もそう簡単には得ることはない。そのような現実なの中で、日々の積み重ねの先に、新しい道が開ける。

幸いにも、近くに見習うべき仲間がいる。現在の3年生である。現在の3年生が1年の時のルーキーリーグも2勝しかできず、ルーキーリーグ初戦では、清水桜ケ丘の0-10の歴史的2ケタ大量失点で負けている。そのような学年が、2年後には胸を張ることのできる結果を手に入れ、選手1人1人も大きく成長した。みんなで力を合わせて勝った時の喜びを知っている。現在の1年生は、これからの生き方、サッカーの取り組み方次第で、さらに上に進むことができる。大きな可能性を秘めている。勝つためにベストを尽くす選手に必ずなれる。

 

 

努力は一生

本番は一回

チャンスは一瞬