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『一流の逆境力』

サッカー本 0063

 

『一流の逆境力』

ACミラン・トレーナーが教える「考える」習慣

 

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著 者 遠藤 友則

発行所 SBクリエイティブ株式会社

2015年4月21日発行

 

著者の遠藤友則は、あまり経歴を語ることがない。知る人ぞ知る有名な人物で、(この本を出版した時点で)ACミランのメディカルトレーナーを16年間勤めてきた。また2006年ドイツW杯には、ウクライナ代表に帯同(ミラン時代のシェフチェンコのつながり)、2014年ブラジルW杯にはガーナ代表に帯同している。

 

この本に登場するミランの選手を挙げてみる。カフーマルディーニ、ディダ、コスタクルタシェフチェンコインザーギ、ヤンクロスキー、ガットゥーゾザンブロッタアンブロジーニピルロ、ムンターリ、マッサーロ、カカ、ベッカムカッサーノルイ・コスタセードルフロナウジーニョロナウドイブラヒモビッチである。世界のトップトップ、超一流選手と緊密に接してきた。一流選手が逆境を乗り越える場面や過程を見てきた経験が、分かりやすく書かれている。

 

綺羅星のごとき、名だたる選手を間近で見ながら、影日向にサポートしてきたわけですが、たとえ一流の選手であっても結果が出ないときはあります。そんな状況の中でも、超一流と呼ばれ、歴史的に名を残す選手がいる一方、苦境に陥るとそのまま這い上がれずに終わってしまう選手もいました。

違いは何だったのでしょうか。

強靭なメンタル、恵まれた才能、運を引き寄せる力・・・?

実は私は、両者に才能の「差」はなかったのではないかと見ています。

もし違いがあるとするならば、それは「考え方」。逆境と言われた時期をどう考え、過ごしてきたかの差、それだけだったと思うのです。

 

一流と言われる選手は、目の前の事象をどのように考え、判断し、行動しているか。とくに結果が出ない時、思うように物事が運ばない時の行動を参考にするには、良書である。

 

 

【付記 遠藤友則についての僕が書き留めて置きたいこと】

その本の内容がどうであれ、尊敬できる著者の本が出たことに喜びを感じる。遠藤友則をなぜ知ったかというと、僕の尊敬する選手が尊敬する人として名前を挙げたからである。

遠藤は静岡県清水市出身である。小学校時代にサッカーをはじめ、その小学校の先生の中に綾部美知枝先生(日本初の女性指導者)がいた。清水FCを立ち上げた時の、初代キャプテンが遠藤である。

中学もキャプテン、高校は清水東へ進学。同じくサッカー部キャプテンとなった。同級生は大木武、高校は違うけれど風間八宏がいた。そんな全国トップレベルの選手がいる中で、遠藤は風間を凌ぐと言われた選手だった。

記念すべき第1回全日本少年サッカー大会が開催され、その大会の優勝は清水FCだった。清水3羽カラスと言われた大榎克己長谷川健太堀池巧が小6の時である。(有名な話ではあるけれど)、清水FCのキャプテンの大榎のインタビューで「憧れの選手は誰か」との質問に、記者たちは世界の有名プレーヤーを期待していた。けれど大榎の口から出た答えは、地元の高校の選手だった。その憧れの選手が、清水東で1年生からレギュラーだった「遠藤友則」である。

遠藤が高校3年の時に、膝の前十時靭帯を損傷してしまった。その当時のスポーツ医学では回復の見込みは薄かった。選手権は試合に出場することなく藤枝東に敗れた。

遠藤は日本大学に進学し、サッカーを続けるも怪我の状態は良くなく、大学2年の時に選手生活にピリオドを打った。そして現在のトレーナーになることを決断する。大学に通いながら、夜間は専門学校に通い、サッカー部では4年ではキャプテンとなる。

卒業後は整形外科に就職。その後、地元で接骨院を開業し、さらに清水エスパルスの医療部門をJリーグ開幕前に立ち上げた。エスパルス時代のマッサーロとのつながりで、ミランの医療部門で働くこととなった。

ここから先は、この本に書いてある。ACミランと言っても、給料は清水エスパルス時代の5分の1、初めは下部組織のトレーナーからだった。3年目にトップチームに昇格、給料は上がらず、就業時間が長くなり、アルバイトも掛け持っていたので、さらに生活は苦しくなった。苦しいことつらいことを乗り越え、着実に実績を残し、信頼され、ミランでの生活が16年となった。

日本サッカーにおける静岡清水、清水東出身の人材の豊富さにはいつもながら感嘆する。サッカーだけでなく常に「考える」習慣を身に付けたいと思う。

 

第59回全国高校サッカー選手権 ハイライト

第59回全国高校サッカー選手権 ハイライト

 

ブンデスリーガが再開された。Jも練習がチームによっては始められている。すべてのサッカーが早く動き出してほしい。

コロナの影響で昭和を振り返る機会を得ている。公式記録として文書では保存されている試合が、貴重映像として残されている。現代の一般生活レベルでは、動画として当たり前のように記録されているけれど、1980年の昭和の時代は写真でさえ貴重であった。ちょうどビデオデッキが全国の一般家庭に普及するちょっと前である。お金持ち、裕福な家では、ちらほらとビデオデッキが家庭にあった時代だったと思う。

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【個人的偏見に満ち溢れた昭和55年度回顧】

昭和55年度(1980年)の韮高は、部員35人。県新人戦は準決勝で負け、県総体(関東大会予選)は初戦で負けている。正月の全国選手権で準優勝という実績があったのにもかかわらず、結果に結びつかなった。とは言うもののインターハイは県代表を勝ち取った。本大会では準々決勝で清水東に2-4で敗れベスト8止まり。その清水東はインハイ優勝した。

 

僕は清水東も好きなので、この年代の清水東について少し綴る。インターハイを制した清水東は、高校サッカーの最高峰、選手権を目指すことなく、3年部員12人が受験勉強に本腰をいれるために引退をした。最後まで残った3年生は4人。その中で激戦の静岡県予選を勝ち抜き代表となった。6年ぶり2度目の選手権出場である。

 

清水東の3年生のスタメンは3人だった。その中の1人に内田一夫さんがいる。山梨では馴染み深いVF甲府の監督だった人物である(現在はVF甲府トップコーチ)。内田さんの清水東の先輩には、これもまた山梨ではファンが多い大木武がいる。

 

VF甲府に話がそれるけれど、数年前に内田さんの後に望月達也さんがトップコーチに就任した。僕はVF甲府が始動して早々に、望月達也さんに会いに行ってサインをもらった。トレーニングが終わった韮崎中央公園の芝生広場で、佐久間さんと雑談していて、「実をいうと望月達也さんが昔から大好きで・・・」と話をすると達也さんを呼んできてくれた。そこで生まれて初めて話をすることが出来た。

 

昭和55年度の話に戻すと、準々決勝で帝京を破った時の先制点は内田さんである。選手権準決勝、韮高の試合の前の第1試合、岡崎城西戦のサッカーは韮高とは全く違うサッカーだった。今振り返ってみると、この時の清水東のメンバーがすごすぎる。3年生の内田さんは言うまでもなく、キャプテンの高橋(高橋が清水東監督の時、息子が清水東だった)。そして伊達。高校サッカー年鑑に載っている伊達が高2の時にサッカーノートに書いていた文章は、清水東魂を感じることができる。静岡有数の進学校で文武両道を貫いた。

https://www.chunichi.co.jp/shizuoka/feature/shizu_soccer/list/2015/CK2015121302000047.html

2年生メンバーもすごすぎる。翌年のキャプテンである望月達也さん。一番有名かもしれないU-22代表監督になった反町(1年浪人して慶応へ進学)。決勝で同点シュートを決める沢入(J開幕当時にピッチに立っている姿を見て感激した)。

1年生の浄見、膳亀(膳亀が清水東の監督となった時は盛り上がった)と今になっても錚々たるメンバーであったと感じてしまう。今でこそ名声を得た方々であるけれど、その当時はプレーのみで観客を魅了していた。僕も多分に漏れず、清水東のプレーに引き付けられてしまった1人となった。

 

韮高の話に戻すと(記憶が正しければ)、前年まではエンジだった生徒会の大旗が緑になった。清水東と同様、スタメン3年生は3人だった。準々決勝の広島工戦は、先制されたものの2-1と試合をひっくり返した。その後、追いつかれて2-2のまま伝説のPK戦となった。伝説というのは「何をもって伝説とするか」という定義があるとすれば、このPKは「横川が止めた」で伝説となった。

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以前も書いたことがあるけれど、このセービングは選手権が終わってもなお、小学生がみんなで横川のセービングを繰り返し真似した。おそらくやらなかった小学生の方が少なかったのではないだろうか。(もちろん「浅川が止めた」もある)。

広島工戦のPKの映像を見ることが出来て幸せに思う。1番は1年生の小沢栄一さん(3年時キャプテン)、2番目は2年生の小尾さん(次期キャプテン)、3番目は現役キャプテンの植松文雄さん。キャプテンの重圧からか、ゴールの枠をとらえることなくクロスバー上にボールが消えていった(94年W杯決勝、ロベルト・バッジョの蹴ったPKの軌道が、文雄さんと同じだなと思ったのは僕だけだったかもしれない)。そして「横川が止めた~」となり、4番目は1年生の保坂孝さん、先行の広島工が外し、5番目の大柴剛さん(2年)が冷静に決めて、何度も見たことのある勝利の喜びのシーンとなる。

 

準決勝の古河一戦でのPKは、韮高は順番を変えてきた。1番目が大柴剛さんだった。3番目のキャプテン植松文雄さんはまたもPKを外した(今度はGKにセービンされた)。外した後の顔はPKを外した後の表情ではなく、ある意味とてもさわやかである。

このハイライトは1つだけ重要なシーンがある。それは韮高の失点が映っていることである。その当時は録画中継だったので、TV中継は前半20分ごろから始まるのが当たり前だった。PK戦までもつれると試合の時間はもっと短縮された。番組の時間制限の都合で、韮高の失点は見ることが出来なかったので、貴重である。

 

解説にもあるとおり、過去7年間の優勝校が出そろった大会であった。韮高、清水東の他にも見るべきところはたくさんある。帝京のみなしごハッチも見ることができる。また進学先の大学では、内田さんと文雄さんは一緒にプレーすることになる。

 

令和の時代に、スタンドで翻る大旗を見たり、百折不撓のハチマキを頭に巻いて応援する生徒を見たり、ピッチのグリーンの戦士を見ることが出来たらいいなと思う。

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第58回全国高校サッカー選手権 ハイライト

第58回全国高校サッカー選手権 ハイライト

 

山梨県では緊急事態宣言が1ヶ月ぶりに解除された。普通の生活に戻るのにはまだ時間がかかりそうである。もう少し映像で過去を振り返る。

 

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この1979年(昭和54年度)の韮高は関東大会、インターハイは県大会で敗れていた。インターハイ県予選は初戦敗退という驚きの結果だった。夏には北海道、室蘭大谷へ遠征合宿をして冬の選手権に標準を絞った(この時の今は懐かしい話を聞くのも面白い)。

 

開会式から始まる映像では、なぜか帝京はカナリヤ色のユニホームではなく赤である。

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準々決勝の水口戦が映像に残されている。先制されるも2-1で試合をひっくり返しベスト4進出となった。大宮サッカー場の応援席には、今でも健在の横弾幕がある。今でこそ県内の試合では目にする弾幕ではあるけれど、我々の時代は、この横断幕は県内の試合では目にすることはなかった。全国大会用(選手権)であった。

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10年ぶりの選手権ベスト4であり、首都圏開催以来、韮高が初めて足を踏み入れる国立のピッチだった。対戦相手は愛知高校。『高校サッカー不滅の名勝負』という雑誌の中で、各都道府県の「我がふるさとのベストゲーム」の愛知県の名勝負には、この韮崎-愛知が選ばれている。

愛知戦で韮高ベンチが映る。その顔ぶれは、今見ても見応えがある。前半はスコアレス、後半は先制、追加点と2点を先制し、終了間際に1点を奪われるも2-1で27年ぶりの決勝へたどり着いた。

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決勝は5万8千の大観衆が詰めかけた。27年ぶりの決勝に勝ち進んだ韮高のキャプテンは滝田さんだった。その滝田さんのお父さんは韮高サッカー部である。偶然にも滝田さんの父が選手権決勝へ進出して以来だった。親子2代で選手権の決勝のピッチに立つことは羨望しかない。

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人間の心情は、いつの時代も変わらない。40年前も選手権を目標として自らを奮い立たせた選手がいて、現在もそれを目標にして頑張っている選手がいる。応援する人も同じである。過去の韮高の試合のスコアや、得点した選手を記憶する必要はない。日本一を懸けて闘った過去があるということを、しっかりと心に刻むだけである。

 

 

全国高校サッカー選手権大会 首都圏開催の歴史

全国高校サッカー選手権大会 首都圏開催の歴史

 

コロナの影響でありとあらゆるものが「自粛」となった。生活様式変化し、自宅待機が増えた影響で、昔の映像が次々と発掘されている。懐かしくも新鮮な映像を楽しませてもらっている。

 

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韮高がインターハイに初優勝した翌年から、選手権大会が首都圏開催となった。1976年(昭和51年)のことである。伝説の決勝戦と言われている浦和南静岡学園の試合は、初の国立競技場だった。静学は準決勝で古河一と対戦した。韮高は準々決勝で古河一と対戦し0-2で敗れ、惜しくもベスト8止まりとなった。夏のインターハイでもベスト4に勝ち進むも、やはり古河一に準決勝で0-2で敗れている。古河一に2連敗の戦績となった年だった。

 

首都圏開催になって4年後、1979年(昭和53年)、韮高が初めて国立競技場での日本一を決めるピッチに立った。

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1981年(昭和55年)、再び決勝戦のピッチに立った韮高は、共に初優勝をかけた武南戦に0-2で敗れた。試合終了のホイッスルが鳴った後、ピッチにうつぶせに倒れている大柴剛さんが印象的であった。1年の時からレギュラーであり、3年間で国立のピッチに5回も立つことのできた選手であり、高校3年間選手権優秀選手に選出された。

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翌年の1982年(昭和56年)、選手権5度目の決勝進出の韮高は、やはり初優勝を狙う清水東と対戦した。清水東も3度目の決勝進出であった。前年インターハイで初優勝した清水東に韮高は準決勝で対戦し0-3で敗れていた。結果として1-4で惨敗してしまったものの、1得点できたことは素直にうれしい。当時、寒々とした国立競技場のスタンドで応援していた僕は、最後の最後まで逆転できるものと信じていた。

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映像では、全般的に帝京の雄姿が印象的である。個人的には、なぜか韮高の敗戦シーンが力強く残されているように思う。決勝の失点トータルが3戦で10失点だからそれも仕方のないことかもしれない。オールドファンとしては、40年も前のことなのに、ほんの少し前のような感じがする。

韮高の選手権出場を「今年こそ」「今年こそ」と願いつつ、多くの歳月が経とうとしている。そして今年も「今年こそ」と願う。

 

 

『わが青春のサッカー』

サッカー本 0062

 

『わが青春のサッカー』

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 著 者 堀江忠男

発行所 岩波書店

1980年2月20日発行

 

10代をターゲットにした岩波ジュニア新書の本であり、このシリーズとしては13冊目の本である(2019年に40周年を迎えている)。比較的読みやすく、著者の青春時代のサッカーを辿ることにより、その時の世界の情勢、歴史の移り変わり、日本のサッカーの歩みが分かる。

 

昭和の初めごろは、小学校6年の義務教育が終われば、社会に出て働くのが普通で、中学校へ進む者の割合は今の大学進学者より少なかった。

 

著者のサッカーを始めた頃は、まだスポーツをやることのできる人間はごく一部だけであった。そんな中、早稲田大学へ進学しサッカーを続けた。そしてサッカー日本史でも重要な「ベルリンの奇跡」と言われているベルリンオリンピックのメンバーに選出された。

ベルリンオリンピックでのスウェーデン戦に勝ったことも、もちろん興味深いけれど、この当時の時代背景がさらに興味深い。ベルリンオリンピックのメンバーに選ばれた後、二・二六事件が起きたこと、ドイツへ向けて出発したルートが満州~シベリア経由でモスクワまで1週間もかかっていることなど、第2次世界大戦へ向かう前の世界を肌で感じている。

そして支那事変が勃発、召集令状が届き中国の戦地での生活、第二次世界大戦突入、そして敗戦、著者は6年間もサッカーから離れた生活を送った。

 

1946年(昭和21年)の冬から春にかけてといえば、飢えをしのぐための食糧買い出しに血眼になっていたころだが、好きな道のことだから、みんなで寄り集まってまたサッカーが始まった。私が戦後最初のゲームをたのしんだのは、帰国してからひと月ほどたったときだ。場所は東大御殿下グランド、相手はイギリス大使館の人びと、こちらは昔私と一緒にオリンピックへ行った仲間とその前後の年配OBだった。

試合の結果はおぼえていない。そんなことはどうでもよかった。生きてもう一度サッカーをやっている。・・・・それだけでこみあげてくる喜びに身体がまい上がりそうな気持だった。

 

1949年(昭和24年)には、戦後初となる『サッカー・理論と技術』を加茂健との共著で出版。本書にはその序文が書かれている。サッカーの進化はサッカーというスポーツを考える人間の進化でもあることを、考えさせてくれる本である。