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第59回全国高校サッカー選手権 ハイライト

第59回全国高校サッカー選手権 ハイライト

 

ブンデスリーガが再開された。Jも練習がチームによっては始められている。すべてのサッカーが早く動き出してほしい。

コロナの影響で昭和を振り返る機会を得ている。公式記録として文書では保存されている試合が、貴重映像として残されている。現代の一般生活レベルでは、動画として当たり前のように記録されているけれど、1980年の昭和の時代は写真でさえ貴重であった。ちょうどビデオデッキが全国の一般家庭に普及するちょっと前である。お金持ち、裕福な家では、ちらほらとビデオデッキが家庭にあった時代だったと思う。

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【個人的偏見に満ち溢れた昭和55年度回顧】

昭和55年度(1980年)の韮高は、部員35人。県新人戦は準決勝で負け、県総体(関東大会予選)は初戦で負けている。正月の全国選手権で準優勝という実績があったのにもかかわらず、結果に結びつかなった。とは言うもののインターハイは県代表を勝ち取った。本大会では準々決勝で清水東に2-4で敗れベスト8止まり。その清水東はインハイ優勝した。

 

僕は清水東も好きなので、この年代の清水東について少し綴る。インターハイを制した清水東は、高校サッカーの最高峰、選手権を目指すことなく、3年部員12人が受験勉強に本腰をいれるために引退をした。最後まで残った3年生は4人。その中で激戦の静岡県予選を勝ち抜き代表となった。6年ぶり2度目の選手権出場である。

 

清水東の3年生のスタメンは3人だった。その中の1人に内田一夫さんがいる。山梨では馴染み深いVF甲府の監督だった人物である(現在はVF甲府トップコーチ)。内田さんの清水東の先輩には、これもまた山梨ではファンが多い大木武がいる。

 

VF甲府に話がそれるけれど、数年前に内田さんの後に望月達也さんがトップコーチに就任した。僕はVF甲府が始動して早々に、望月達也さんに会いに行ってサインをもらった。トレーニングが終わった韮崎中央公園の芝生広場で、佐久間さんと雑談していて、「実をいうと望月達也さんが昔から大好きで・・・」と話をすると達也さんを呼んできてくれた。そこで生まれて初めて話をすることが出来た。

 

昭和55年度の話に戻すと、準々決勝で帝京を破った時の先制点は内田さんである。選手権準決勝、韮高の試合の前の第1試合、岡崎城西戦のサッカーは韮高とは全く違うサッカーだった。今振り返ってみると、この時の清水東のメンバーがすごすぎる。3年生の内田さんは言うまでもなく、キャプテンの高橋(高橋が清水東監督の時、息子が清水東だった)。そして伊達。高校サッカー年鑑に載っている伊達が高2の時にサッカーノートに書いていた文章は、清水東魂を感じることができる。静岡有数の進学校で文武両道を貫いた。

https://www.chunichi.co.jp/shizuoka/feature/shizu_soccer/list/2015/CK2015121302000047.html

2年生メンバーもすごすぎる。翌年のキャプテンである望月達也さん。一番有名かもしれないU-22代表監督になった反町(1年浪人して慶応へ進学)。決勝で同点シュートを決める沢入(J開幕当時にピッチに立っている姿を見て感激した)。

1年生の浄見、膳亀(膳亀が清水東の監督となった時は盛り上がった)と今になっても錚々たるメンバーであったと感じてしまう。今でこそ名声を得た方々であるけれど、その当時はプレーのみで観客を魅了していた。僕も多分に漏れず、清水東のプレーに引き付けられてしまった1人となった。

 

韮高の話に戻すと(記憶が正しければ)、前年まではエンジだった生徒会の大旗が緑になった。清水東と同様、スタメン3年生は3人だった。準々決勝の広島工戦は、先制されたものの2-1と試合をひっくり返した。その後、追いつかれて2-2のまま伝説のPK戦となった。伝説というのは「何をもって伝説とするか」という定義があるとすれば、このPKは「横川が止めた」で伝説となった。

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以前も書いたことがあるけれど、このセービングは選手権が終わってもなお、小学生がみんなで横川のセービングを繰り返し真似した。おそらくやらなかった小学生の方が少なかったのではないだろうか。(もちろん「浅川が止めた」もある)。

広島工戦のPKの映像を見ることが出来て幸せに思う。1番は1年生の小沢栄一さん(3年時キャプテン)、2番目は2年生の小尾さん(次期キャプテン)、3番目は現役キャプテンの植松文雄さん。キャプテンの重圧からか、ゴールの枠をとらえることなくクロスバー上にボールが消えていった(94年W杯決勝、ロベルト・バッジョの蹴ったPKの軌道が、文雄さんと同じだなと思ったのは僕だけだったかもしれない)。そして「横川が止めた~」となり、4番目は1年生の保坂孝さん、先行の広島工が外し、5番目の大柴剛さん(2年)が冷静に決めて、何度も見たことのある勝利の喜びのシーンとなる。

 

準決勝の古河一戦でのPKは、韮高は順番を変えてきた。1番目が大柴剛さんだった。3番目のキャプテン植松文雄さんはまたもPKを外した(今度はGKにセービンされた)。外した後の顔はPKを外した後の表情ではなく、ある意味とてもさわやかである。

このハイライトは1つだけ重要なシーンがある。それは韮高の失点が映っていることである。その当時は録画中継だったので、TV中継は前半20分ごろから始まるのが当たり前だった。PK戦までもつれると試合の時間はもっと短縮された。番組の時間制限の都合で、韮高の失点は見ることが出来なかったので、貴重である。

 

解説にもあるとおり、過去7年間の優勝校が出そろった大会であった。韮高、清水東の他にも見るべきところはたくさんある。帝京のみなしごハッチも見ることができる。また進学先の大学では、内田さんと文雄さんは一緒にプレーすることになる。

 

令和の時代に、スタンドで翻る大旗を見たり、百折不撓のハチマキを頭に巻いて応援する生徒を見たり、ピッチのグリーンの戦士を見ることが出来たらいいなと思う。

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