ニラニスタ発・蹴球思案処

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気持ちの高ぶり

気持ちの高ぶり

 

選手権と聞いて、気持ちの高ぶらない現役部員はいない。OBでも、韮高を応援する多くの人たちも、気持ちの高ぶらない人はいない。なぜならば、韮高が全国での選手権に出場し、トーナメントを勝ち上がっていくことを期待しているからである。そしてそう信じている人も多い。

たかが高校サッカーである。高校生の部活動にそれほどの期待をしてどうするのかという人もいる。それでもなお、郷土の誇る韮高サッカーであり、長い年月選手権に出られなくても韮高への希望は薄れることはない人もいる。

韮高創立100年という年月は、とてつもなく重く積み重なったものであると思う。一世紀を通じて、高校生活を送った人間がいて、その高校生活とその後の生活において、韮高の校技であるサッカーを応援している卒業生はかなりの数に及ぶ。100年の想いを受け止め、あらゆる期待に応えることは、素晴らしい栄誉であると思う。

 

伝統と歴史の期待に応える一方で、自らの内から湧き上がる選手権への高ぶりはどのようなものか。心の内には、自分にしか分かち合えない大切なモノがあるし、他人に分かってもらおうとしても分かってもらえないモノもある。サッカーに対する自分の純粋な気持ちが、選手権に挑む高ぶりである。勝利のために、自分の持てる力を出し切ることは、自分のサッカーの想いに対しての裏切りのない行為である。自分の想いに正直に、ブレることなく貫くことができれば、見守ってくれた周囲の人たちに対しても、それ自体が感謝の行為となる。

 

「自分は何者なのだろうか」とか「自分は何のために生まれてきたのだろうか」とか「自分はどこへ向かっているのだろうか」とか哲学的、文学的、現実的であり観念的な疑問は、自らが必死になって打ち込むサッカーの中に答えは潜んでいる。答えがないという答えが待っているかもしれないし、明確な将来のビジョンを指し示す答えもあるかもしれない。もちろん答えが見つからないこともありえる。ある意味、そういった未知への不安も気持ちの高ぶりの1つである。

 

目の前の試合に関して言えば、男らしく腹をくくって、挑むだけである。勝つか負けるかは、生きるか死ぬかの戦争と同じである。高ぶる気持ちの中に冷静さと謙虚さを持つことができれば、敵より有利に立つことができる。試合中、相手の隙を見つけることができ、そこを突くことができる。劣勢な時間帯の思考と次への爆発的なアクション。サッカーに心を寄せることができたならば、必ず良い風を吹かせることができる。

 

将来のない人間は存在しない。また可能性のない選手はいない。内に秘める気持ちに正直に、その高ぶりにドキドキしながら、心地良く受け止められることができるならば、先は明るい。