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関東大会での出来事

関東大会での出来事

 

令和4年度 第65回関東高等学校サッカー大会が神奈川県で開催された。韮高は武南に初戦で敗れた。結果は結果で素直に受け止めるしかない。試合とは関係なく、韮高サッカー部史としてうれしいことがあった。

 

関東大会は、第65大会となることを考えるととても歴史ある大会である。選手の育成の観点から、全国規模でリーグ戦が行われるような仕組みつくりが行なれ、スケジュールの調整が難しいということで、近年は関東大会軽視の風潮が見られるようになった。プレミア、プリンス所属の高校にとっては、全国へつながらない大会は、もちろん魅力のない大会かもしれない。賛否が分かれるところではあるけれど、関東各県の激戦を勝ち抜いた高校と対戦できる良い機会であると僕は思っている。東京、埼玉、神奈川、千葉、茨城、群馬、栃木各県全てにおいて、予選を勝ち抜くだけでも激戦であり、代表を勝ち取ることは選手たちの自信にもつながる。目標設定のレベルの高い低いはあるとはいえ、目の前の試合を全力でプレーする事には変わりはない。

 

そのような中で、東京のA代表となったのは成立学園だった。山梨はA代表が山梨学院、B代表が韮崎だった。各県代表2校、計16校の監督は16人。成立学園、山梨学院、韮崎高校の3校の監督は、韮高サッカー部OBだった。山梨学院の監督は羽中田さん、成立学園の監督は羽中田さんの1つ下の山本健二さん、韮高は小泉圭二監督である。3人とも高校時代に関東大会に出場していると思ったら、羽中田さんの時代は3年間、関東大会への出場はなかった。驚きである。

関東大会という場で、監督として韮高サッカー部OBが3人も顔を合わせることはとても貴重である。全国規模で見ても、同じ高校のサッカー部OB3人というのは、めったにないことであると思われる。

サッカー仲間は、組み合わせを見た時に、学院-成立の決勝が見たいと言っていた。根強い高校サッカーファンがいる。違うサッカー仲間からは、貴重画像を送ってもらった。持つべきものは友であり、サッカー仲間である。

 

 

監督会議の前後だろうか。3人で何の話をしたかは、3人のみぞ知るところである。現役のサッカー部はもちろん、OBの活躍はうれしく、サッカーに関係した活躍は更にうれしい。良い刺激をもらえるし、もっともっとがんばらなければと思う気持ちにさせられる。静かでありながらも熱いものを感じざるを得ない。

それにしても、ヤマケンさんは久しぶりに見ることができた。数年前の武田の里サッカーフェスティバル以来だろうか。高校時代は同姓同名の山本健二がいて、ヤマケンさんはチビケンと言われていた。僕もそう呼んでいた。ヤマケンさんはJリーグ開幕時にはジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド千葉)に所属していた。リトバルスキーがジェフにいたので、リッティと一緒にトレーニングや試合ができるなんてうらやましいなと思っていた。当時、Jリーグ人気とリトバルスキー人気で、プラチナ化したチケットはほとんど手に入ることができず、ヤマケンさんのプレーをスタンドで観ることはできなかった。チケットが取れた試合はヤマケンさんが出ていなかった。

 

ヤマケンさんの韮高時代は、選手権ベスト4の最後の世代だった。左サイドを駆け上がるヤマケンさんはかっこ良かった。サイドを駆け上がるプレースタイルは現代のサッカーでは当たり前である。40年近く前にはサイドバックが攻撃参加するという概念さえほとんどない時代だった。オーバラップという言葉を耳にする程度だったように思う。ヤマケンさんは、攻撃的サイドバックという高校サッカー界の先駆けだった。その後、日本代表でも市川、相馬、現在の長友などへと移り変わり、当たり前の攻撃オプションとなった。

マニアックな韮高ファンならば、PKの時に震えながら祈っているヤマケンさんが、ヤマケンさんである(ような気がする)。

 

成立学園には、東京代表となってもらい選手権で戦いたい。もちろん山梨県代表は韮崎高校である。韮高の現監督には、1日も早く1時間も早く、先輩OBを追い越して欲しい。そして誰も成し遂げることのできなかった選手権全国制覇を実現してもらいたい。多くのOBが応援し、多くの地域の方々が応援し、期待をし、支えてくれている。韮崎高校創立100周年と期を同じくして、何かが起こる予感がする。関東大会の3人OBは単なる予兆でしかない。

 

 

“集団”それはリーダーの人間性を映す鏡なのです

稲盛和夫