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選手権特集05  田草川先生

選手権特集05

 

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「私の選手権」に登場したのは、田草川先生だった。韮高蹴球部中興の祖である。1963年(昭和38)から10年間、サッカー部の監督を務めた。紙面にある通り、10年で4回選手権に出場し、2度のベスト4の実績を残した。

特筆すべきことがある。僕の恩師でもある清水亘先生が3年生の時である。関東大会を前に、ユニホームを伝統の緑から白×ブルーのユニホームに変えてしまった。OBがうるさい時代で、いろいろと問題になったことを亘先生から聞いたことがある。今度、しっかりとその時代のことを聞いてみようと思う。それにしてもユニホームの色を変えるとは思い切ったことをしたものだと思う。

韮高に赴任して4年間、選手権に出場できなかった。『サッカー物語』には当時のことが書かれている。

 

もう一つがっかりさせたのは試合途中のハーフタイムだった。選手は監督である田草川のもとに集まらず、観客席のOBのもと行くことがあった。

 

選手権ではないけれど、福井国体で初の単独日本一になった。インターハイは第1回が青森で開催された。この記事が載るちょっと前に、そのインターハイに出場した大先輩OBと長く話をする機会があった。田草川先生の話を聞き、そのインターハイの話を聞くことができた。それでも、やはり何と言っても選手権である。大先輩も一言目には、「俺らの代は選手権に行けなかった」と言っていた。

 

田草川先生は、第1回のコーチングスクールに参加している。第1回コーチングスクールは、全国から選ばれた27名の指導者が参加した。その中に田草川先生が入っていることはすごいことである。サッカーに対しての学ぶ姿勢、探究心は絶対に見習わなければならない。日川高-日体大のつながりで、横森監督を次期監督にひっぱってきたことも特筆すべきことである。

100回大会を機に、このような特集を組むことで、改めて韮高サッカー部の深く積み重なった歴史を感じる。令和の時代に再び全国で活躍する韮高が見たいと思う。田草川先生も楽しみにしているに違いない。

 

 

人間は虚無から創造することはできない。いま現にあるものをふまえて未来をつくるほかはない。ところでその現在は、好ましいものであろうと、いとわしいものであろうと、それはまた過去に規制されつつ生まれたものである。したがって、未来への情熱がいかにはげしくても、過去を完全に無視してしまうなら、現在の確保が弱くなるという意味において、未来への躍進はあぶなっかしいものとなる。このようにいうことは、過去主義あるいは回顧趣味の奨励では、もとよりない。じじつ、未来への意欲をもたぬひとには、過去はとらえにくいものとなるものであって、わたしたちのいいたいのは、過去のうちで現在に生きている、あるいは生かしうるものをつかんで、未来への出発を確実なものとすべきだということである。