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サッカーと論語と算盤

サッカーと論語と算盤

 

昨年春、エルゴラッソ紙面で、サッカーを楽しむための『完全読書ガイド』の特集をした。Jリーガー、スタッフの3人もがプライベート本で『論語と算盤』をリストアップしていた。渋沢栄一の著書ということは知っていたけれど、未読だったので読んでみた。

渋沢栄一は昨年生誕180年となり、今年の大河ドラマの主人公となったり、24年には新1万円札になったりと盛り上がっている。日本資本主義の父と言われる渋沢栄一は「論語」と「経済」を結び付けている。利益の追求や富や金や豊かさと孔子の思想は対極に位置するようであるけれど、渋沢栄一は「論語と算盤は甚だしく遠くして甚だしく近いもの」としている。

 

話しは逸れて、僕は大学では文学部中国文学科だった。漠然と日本を勉強しようと思い、それにはまず中国から勉強していこうと思っていたら、日本に行きつくどころか、キリスト誕生まで進むことさえできなかった。論語はもちろん勉強して、普通の人よりは漢文は読めると思っている。

という訳で、サッカーと論語を直接結び付けるのはとても大変な作業なので、サッカーと論語と算盤に結びつけてみる。経済と同様、サッカーも「甚だしく遠くして甚だしく近いもの」であるように思える。

 

人生は努力にあり

怠惰はどこまでも怠惰に終わるものであって、決して怠惰から好結果が生まれることは断じてない。

 

一郷一国乃至天下

一人勉強して一郷その美風に薫じ、一郷勉強して一国その美風に化し、一国勉強して天下靡然としてこれに倣う。

 

サッカーをやるに以前の「人としての生き方」の儒学的思想である。孔子は、学ぶことによって人は向上すると考えている。サッカーをするにあたって、果てしなく追求すべき姿勢である。サッカーがうまくなりたいと考えるのは当然であり、サッカーだけやっていても上達はしないし必ず行き詰まる。内的成長が伴った上達は真の成長である。

 

学ぶに暇(いとま)あらずと謂う者は、

暇(いとま)ありと雖(いえども)も亦(また)学ぶこと能(あた)わず

淮南子

 

サッカーと向き合うことは自分と向き合うことであり、生き方(人生)を追求することである。そこに妥協があってはならない。尚且つ自らを律し、仁、徳、義、孝、礼、そして道と宇宙的に突き進まなければならない。

その追求過程で人は挫けてしまわないために、論語の究極な教えがある。

 

子曰、知之者不如好之者、好之者不如楽之者

 

子曰く、これを知る者はこれを好む者に如かず。

これを好む者はこれを楽しむ者に如かず

 

サッカー(人生)を努力する。努力の努は奴隷の奴からからきていると言われている。嫌なことだけどやらなければならない。この教えはさらに高いレベルである。「サッカーを知っている(見ている)だけの者は、サッカーを好きでプレーしている者には及ばない。サッカーを好んでプレーしている者は、サッカーを楽しんでいる者には及ばない」のである。サッカーが好きで、戦術、個人のプレーがどうのこうのとうんちくを垂れている者より、サッカーが好きで飯を食えるようにプロを目指している者より、サッカーそのものを楽しんでプレーする者にはかなわないのである。トレーニングが試合に活かせ、どうやったら楽しくなるのだろうと思える境地に辿りつけるように、まずは日々努力しなければならない。そこから楽しさへの追求の道が始まる。スキルが上がり、レベルが高くなればなるほど、楽しさは究極的なものとなる。