ニラニスタ発・蹴球思案処

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トンネルの中の日々

トンネルの中の日々

 

この季節(というのは全国高校サッカー選手権の季節なのだけれど)、自らが高校3年間選手として、またはその前後の人生において関わりを持ってきた者にとっては、無意識に体内の何かが動き出し、過去へ、未来へと思いを巡らせるようである。

 

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お宝発見は、この季節特有の懐古主義から生まれる。情報、画像、動画がリアルタイムで共有できる今の時代は驚くばかりである。また多くの人が記録を膨大な量として残すことのできる時代である。昭和の終わりの頃に高校生だった僕らの時代は、写真を撮るということは大会で優勝する事より他はほとんどなかった。だからサッカーをしている写真は全くと言っていいほど残っていない。写真を撮ることは庶民レベルまで達していたものの、サッカーと写真が結び付くことはなかった。そのような時代の中、1枚の貴重な写真が発掘され送られてきた。その画像を見ると知っている顔がたくさんあったので、僕も写っているはずだと思い自分の顔を探した。1回目に見ても自分を探せず、2回目にゆっくりじっくりと見て自分を発見できた。右側に優勝旗があるので、おそらく県総体で優勝をしたときの記念で、後日、韮高グランドで撮ったものである。

 

それにしても、先輩たちは学校で禁止されているパーマらしき髪型をしているし、どこかの不良集団のようである。実際、ユニホーム姿で本当に良かったと思う。喧嘩は半端なく強く、弱い者も強い者もなりふりかまわずやっつけていた。近寄りがたい雰囲気をいまだに感じさせる。当たり前だけれど、横森監督は若い。このメンバーではサッカー以外の私生活で相当手を焼かれたことは間違いなかった。サッカーにおいてはとてつもない潜在能力を持つ逸材がたくさんいた。サッカーセンスは抜群で、本当に上手かった。サッカー選手として素材的には文句なく日本トップクラスだったと思う。当時、そこに身を置いた者から正直に言わせてもらえば、「でもこのチームでは絶対に勝つことはできない」。残念ながら、ここに写っている者が100%に近い確率でそれを断言すると思う。「サッカーは人生の縮図である」という言葉は、そのまま高校3年間の生活で学んだ。その後、ここまで生きながらえているものの、人生が濃縮されすぎているこの3年間以上のものを体験していない。一瞬、「懐かしい」と思っても、次にそこから思い出される様々なことは暗く、哀しいことばかりである。今思い起こしても長い1ヶ月の連続であって、絶対にあっという間ではなかった。トンネルの中の日々と言っていいのだろうか。言葉にならない深いため息の出る写真である。みんながみんなやんちゃで子供だった。根をどっしりと張り切っていない草花は、花を咲かすことができない。

 

選手権の喚起力は繊細でありながらも強烈である。自分の現在地であったり、アイデンティティの再確認であったり、サッカーの持つ世界観を考えたりする。目に入る非日常空間でのゲームは、自分に何をもたらし、どこへ向かわせるのだろうか。あるいは、何か象徴的なメッセージを発しているのかもしれないし、イデオロギー的な部分において何かを啓示しているかもしない。サッカーという行為、現象はどこかしら詩的であり、情緒的であるように思える。