ニラニスタ発・蹴球思案処

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朝の風景

朝の風景

 

朝6時半前に韮高の前を通ると、グランドでボールを蹴っている選手が数人いた。授業が始まる前にボールが蹴れることの幸せを感じているのか、ライバルより多くのトレーニング時間を積み重ねているのか、その心意気は分からないけれど、遠くから見るその風景はどこかしら見ている者の心を動かすものがある。

 

おそらく練習量(朝練や居残り練)と成長(上達)は比例はしないだろう。人より多く練習をしているから試合に出られるわけでもない。量より質にウェイトを置いている人にとっては、「どうしてそんなにやるの」的な発想があるだろう。「スペインではトレーニング後の自主トレはしない」だとか、「トレーニングに100%以上の集中力と体力を出せば、自主トレをする余力はないはずだ」という考えもある。もちろん国や文化の違いから、その逆のことも考えられる。

 

練習をしないで上手くなる選手はいない訳で、ではどうして自主練をそれも朝にする選手がいるのか、また僕のようにその姿を見て心動かされるのかというと、やはりそれは日本的なものと、悪い意味での経験則からきているのだろう。とはいえ、朝という時間の使い方にボールを蹴ると言うことは、そういう行為が必要な人間にとっては、プラシーボ効果があり、自己暗示的なプラスの効果があると思っている。嫌々ながら朝からボールを蹴っているわけではない。少しでも上達したいと思い、なによりもサッカーが好きだからボールを蹴っているのではないかと思う。

 

試合に出られるか出られないか、試合で結果を残せるか残せないかの差は、すべて自分自身の中にある。もちろん監督や切磋琢磨する仲間の力は大きい。それにも増して、自らの才能を自ら伸ばす力の大きさが、成長を加速させると考える。努力をしないと夢には近づけない。コツコツとひたむきにトレーニングを積み重ねる選手を応援したい。そういった選手はやがては周囲にも大きな影響を及ぼす選手となる。またそういった選手が多い集団であれば、チームとして強くなる可能性は大きい。