ニラニスタ発・蹴球思案処

蹴辞逍遥・晴蹴雨蹴

NAKATA百景 中田英寿の足跡をたどる

NAKATA百景 中田英寿の足跡をたどる

 

コロナ自粛期間中、SNSで「ブックカバーチャレンジ」なるものが回ってきた。サッカー仲間の本の紹介を見ていたら、興味深い本やら懐かしい本やらノーマークの本が登場して、とても面白かった。その中で『ゴール裏で日向ぼっこ』という本があった。本を紹介した仲間は、大学時代に新聞部だった著者の熊崎敬とつながっているようだった。

そういえば、この本があったなと探したところ、無事発掘されて再び目を通すこととなった。2007年2月に出版されたこの本は、当時読んでもそれほど興味を引かなかったのかもしれない。10年以上の月日が経ち、改めて読んでみると、熟成されたウイスキーのように、味わい深いものとなっている。なんとなく、今が読み時ではないかとさえ思う。

 

【『ゴール裏で日向ぼっこ』初掲載2004.4『Number 600』NAKATA百景 中田英寿の足跡をたどる】

f:id:nirasakishikibu:20200615111520j:plain

武田信玄像は七分咲きの桜に包まれて、甲府駅前に鎮座していた。軍配を右手に握り締め、甲府盆地に睨みを利かせている。

甲斐には武田信玄がいる。いや武田信玄しかいない。道々には「武田信玄公祭り」や「風林火山」の幟が立ち並び、駅ビルは信玄土産で埋め尽くされる。

土産にしても、信玄か否かの二者択一をつねに強いられる。

信玄ワイン、影武者ワイン。信玄桃。信玄軍配。信玄家宝。武田漬。戦国ほうとう。信玄おざら。武田風林まんじゅう。そして信玄餅。この全国区の知名度を誇る山梨銘菓の王者は、携帯ストラップとしても売り出されている。

「おわかりでしょうが、この山梨という土地はいつまで経っても信玄公でくっているんです」

それは、韮崎市から委嘱されて「武田の里にらさき大使」を無給で務めている横山昭作、七十七歳の言葉である。

韮崎は美しい。北に八ヶ岳、西に甲斐駒ヶ岳、南に富士山を臨み、春になれば、梅、桜、桃の花々が咲き乱れる。エッセイストでもある彼は、その筆力と行動力でもって、故郷、韮崎の魅力を伝えるべく日々飛びまわっている。

横山は、高校サッカーの名物お爺さんとしても知られている。

このスポーツの魅力に取りつかれたのは、母校である韮崎高校が冬の選手権で五年連続で準決勝に進出するという大旋風を巻き起こした1980年代のことだ。以来、高校サッカーと聞けばあらゆる大会に足を運び、滝川二清水東藤枝東、桐東学園など多くの強豪校の選手や監督たちと親交を深めてきた。山ほどいる「息子」には中村俊輔も含まれるが、もちろん韮崎高校サッカー部は丸ごと息子たちのようなものだ。

ただし、例外もあるらしい。山梨で出会った多くの関係者は苦笑いしながら口にしたものだ。

「いやあ、横山先生は中田英寿には厳しいですから」

東京から記者がやって来ると聞いた横山は、自らハンドルを握り、山梨県フラワーセンター、武田八幡宮新府城址、武田神社と史跡名勝の数々を案内した。真正面に富士山を、バックミラーで八ヶ岳を堪能できる、お気に入りの茅ヶ岳広域農道もわざわざ遠回りして走ってくれる念の入れようである。それはそれは素晴らしい案内ぶりだった。

この熱心なガイドと最後に訪れたのは甲府市丸の内にあるレストラン「パレット」だった。多種多様なワインと手作りハンバーグが評判のこの店を切り盛りするのは羽中田仁、三年連続で韮崎高を国立に導いたエース、羽中田昌の七歳上の兄である。小じんまりとした店内には、「パレットお絵かき教室」の先生をしている妻の油絵の数々が飾られ、レジの近くには、妻のお手製のカレンダー、さらには物書きとしても活動中の弟の手によるエッセイ本が売り物として並べられていた。

いつも減らず口ばかり叩き合っているふたりは、こちらが水を向けるまでもなく、勝手気ままに話し始めた。

羽中田 「中学時代の中田を見たことがあるけど、当時は有名じゃなかったんだ。中心選手だったかもしれないけど、他の中学にも同じくらい上手いのがいたからね」

横山 「わたしはねぇ、中田は全然評価していませんよ。上手いなんて思ったことがない。強いとは思いますが」

羽中田 「でも、ポイントになれるじゃない。確実に二、三秒はキープできる。それはデカいよ。ちょっと浮いているように見えるけどさあ」

横山 「周りが尊敬して、そうなってるならいいけどねえ」

羽中田 「韮高でも、あったよね。ハーフタイムって監督がいろいろいうものでしょ。でも、中田がチームメイトに指示してた。おかしいって思いましたね」

横山 「中田が三年のとき、選手権は予選の決勝で負けちゃったじゃない。その後、パレットに来たんだよね」

羽中田 「ああ、そうだった」

横山 「試合が終わって、彼が甲府駅北口の公衆電話で話しているのをみかけたの。それで僕が、中田くん、付き合いなさいよって誘ったら来たのよね、素直に」

羽中田 「中田、カウンターに座ってたんだ」

横山 「そこのカウンターでか。ああ、何か食べてたよ」

羽中田 「あれ、中田がPK外して負けただっけ?」

横山 「いや、外さない。中田、だらだらしてたの。みんなもだらだらしてたんですよ。一点差で勝っていたのに、ロスタイムに帝京三の選手がシュートを撃ったらね、韮高のキーパー、いい選手だったんだけど、魔が差したのか何か変なパンチしたのよ。それが敵の前に落ちて決められたの。それでね、延長戦を十五分ずつやっても勝負つかなくて、PKで負けたんです。勝ってた試合を落としたから、うんと悔しいわけですよ。選手はみんな、芝に引っ繰り返ったりして泣いてるわけで。だけど、そのとき中田、笑ってたからね。新聞記者と話しながら。韮高での仕事は終わったなあと思ったかどだか知らないけど、その印象、つよかったですねえ」

羽中田 「ウチに来たときもほら、けろっとしてた。あれ、負けた選手の様子じゃなかったですねえ。そこで何を話すかと思ったら、ベルマーレのことで。負けちゃったからしょうがないや、次に行くかってな感じですね」

横山 「よく覚えてるねえ」

羽中田 「でも、それちょっと違うんじゃねえのって思いましたけどねえ。それで試合後のコメントっていうのが、調子が悪かった、だって。まあ、あっちこっち遠征してて忙しいだもん。身体動かんかっただろうね」

横山 「合流したのが準決勝だったからねえ」

羽中田 「それにしてもさあ、選手権のために三年間頑張ってきた仲間がいるんだよ。そんなこといっちゃっていいのかなって思ったよ。せめて、調子悪くて、迷惑かけてすみませんとかさあ。だから、彼は違うんだよ。高校は次への踏み台でしかないんだ。それにしても、仲間への思いやりがないのかなあって」

横山 「家族を好きになって、近所を好きになって、母校を好きになって、郷土を好きになって、そういうところがないのかなあって思うよ。外国人みたいだよねえ」

羽中田 「帰ってきてもお忍びだもんね。煩わしいんだろうね。面倒なんだろうね。わかる、わかるよ、俺には」

横山 「でもねえ、郷里にちょっと顔出して、にこりとするくらいしてほしいよ。損するわけじゃないんだから」

羽中田 「でも、笑わないってイメージあるからさあ」

横山 「あー、そうか、そうか」

 

94年11月19日、それは中田が韮高サッカー部で最後のゲームを戦った日だ。甲府市の実家からほど近い緑が丘陸上競技場で、韮高は帝京三と全国への切符を懸けて戦い、PK戦の末に敗れた。選手権の全国大会に出たのは、二年生のとき一度きりだ。

この一戦を取材した『山梨日々新聞』の小宮山良一記者は、その試合の様子を良く憶えている。甲府駅前の古風な喫茶店「リリア」で、小宮山は昔の記事のコピーを広げながら、思い出話を聞かせてくれた。

帝京三は北井君という身体能力の高い選手を、マンマークで中田くんにつけたんですよ。加えて中田くん自身の調子も良くなかった。僕は帝京三の取材に行っていてよく憶えていませんが、試合後の彼は淡々としていましたね。彼はいつだってオーバーなことをいわない。事実を淡々と語る。僕がどうにかしなきゃ、僕がダメなら負けちゃうて気持ちはあったと思うんですよ。でも、勝っても喜ばないし、負けても泣かない。そういう高校生だったんです」

小宮山にとっての中田は、リップサービスの少ない取材対象だったが、どこにでもいる高校生でもあった。親しかったわけではないが、取材の機会があれば自動車の運転のこと、漫画のこと、要するに他愛もない会話をしたものだ。しかし、それも過去の話でしかない。

「中田くんが山梨を出てからは、取材ができなくなってしまいましたね。いまは共同通信の配信があれば、それなりに大きく扱うくらいで。フランス・ワールドカップのとき、自治体がパネルを作って駅や道路に張り出そうとしたことがあったんですよ。でも、結局許可が下りませんでした。本来ならもっと中田くんでPRしたいって自治体も考えたはずですが、本人はそういうの嫌いでしょうからね。事務所に取材を申し込んでも、返事がないんです。断られるならまだいいんですが」

日本のスポーツ選手は、故郷とか何かしらのつながりを持って生きている。

その奔放な言動で「甲府の小天狗」と呼ばれていた堀内恒夫も、同級生が主催する激励会があれば顔を出し、しばしば母校の恩師の墓に足を向ける。それは、日本で正しいとされる行いである。故郷は彼らを縛りつける。だが、決して裏切らない。つらくなったときには、温かく迎えてくれる。たとえそれが、甘やかすことであっても。

最後の選手権の決勝で敗れた中田が、パレットの次に足を向けたのは、同級生の自宅だった。そこにいたチームメイトの今村優貴は、昨日のことのように、その夜のことを憶えていた。

「あの試合のヒデは、僕が見た中でいちばん悪い出来でした。1アシストはしたけど、見るからに身体が重そうで。その夜、僕はひとりで家にいるのがつらくて、サッカー好きの友達のところに行ったんです。翌日が日曜日だったから、泊りで。そのときヒデに電話したら、終電かなんかで来ました。でも、あいつはひとり、2階で試合のビデオ見ていました。一緒に見るかっていわれたけど、僕はショックでそんな気にはなれなかった。大学2年生になるまで見られなかったんです。あいつが負けて平気だったとは思わない。でも、サッカーでメシを食べていくあいつは、そういう感傷的なものから自立していたのかなって思いまいたね」

中学時代、トラベッソというクラブチームで活躍していた今村は、一部では中田以上に将来性を評価されていた。しかし中田は、「派手なプレーはするけど、今村は基本ができていない。いつか追い越してみせる」と口にしていたようだ。

それからの十年の歳月は、ふたりの道を大きく分かつことになった。中田はイタリアに羽ばたき、今村は富士河口湖高の教師として、またサッカー部の監督として人生を歩んでいる。

「でもね、僕の中のヒデは変わらないですよ。メールのやりとりはしてますが、内容は他愛もないもので。日本中が、中田さん、中田さんって仰ぎ見るような感じで彼を見ているじゃないですか。僕たち同級生まで、そんな目で見てしまったら・・・。ヒデ、大変だと思うなあ。移籍先は自分ひとりでは決められないだろうし、あそこまでイメージを作り上げられたら、いきなり愛想よくもなれないから」

有名になっても、いや、だからこそ大きな壁に直面いている旧友を、今村は思いやる。その今村にしたって、障害物に挑み続ける毎日だ。何もかも変わったようで、何も変わっていないのかもしれない。

「いまの高校には赴任して2年目を迎えるんですが、この学校、サッカー部には厳しいんですよ。ラクビー部と野球に力を入れていて、サッカー部を創部するときに学校の施設を使ってはいけないとう条件になってしまったんです。いまも練習では、自転車で十分くらい行ったところにある町営グランドを使っているんですよ。そのことを僕は書いてほしいなあ。この環境を変えるためにも、とにかく頑張って実績を残さないと」

故郷には、大物になる前の中田と普通に接していた人々がいる。気持ちのいい友人が、そこにはいる。

 

甲府昭和高校の雑然とした体育教官室は、そこに出入りする生徒たちの気持ちのいい挨拶で活気に満ちあふれていた。そこには、中田の高校時代を知る男たちが待っていた。

韮高でサッカー部のコーチや監督をしていた新藤道也、中田の一年先輩であり、ヴァンフォーレ甲府で若年層を指導する土橋功、中田の一年後輩で、この春から小学校の教師になる田中亮の三人である。

土橋 「僕はヒデと同じ甲府出身で、一緒に電車通学していたんだ。僕らはふたりとも上下関係とかが好きじゃなくて、それもあって仲良かったんだよね」

田中 「最初に中田さんを見たのは?」

土橋 「ヒデは甲府北中で、僕は東中だったから、よく練習試合したんだけど、そんなに印象はなかったなあ。でもねえ、その後のヒデのには驚かされたよ。十七歳以下の世界選手権がちょうど日本であって、彼はチームに入ってから海外遠征とか合宿とかに行くんだけど、帰ってくるたんびに目に見えて上手くなってね、こいつ、すげーって」

田中 「だからかなあ、中田さん、韮高の練習のときはなんだかつまらなそうに見えて」

新藤 「あいつ、高いレベルで自分が何をできたかを把握して帰ってくるんだ。そして、次の目標というものも必ず持ち帰る。だから、高校での練習には満足しないんだ。基本練習やってると、先生、何でこんな練習するんですか、基本練習は個人でやればいいじゃないですか、それより例えば3対3のグループ練習なんかをって。そこで俺はね、みんながおまえのレベルだったらいいけどなあ、おまえがプレーするにはだれかがおまえにパスしなきゃいけないんだよって話をしたんだよ」

土橋 「僕はヒデといつも自主練やってましたね」

新藤 「その内容が、また凄いんだよな」

土橋 「例えば15メートルくらいの間隔で、ふたりでリフティングするんですよ。普通なら長く続けるためにポーン、ポーンってやるでしょ。えも、あいつは違ってね、いきなりシュートのような球蹴ってくるんだ。ヒデがドンッと蹴って、それをこっちもポンポンッてリフティングして、またドン! それを続ける。お互いムキになってね」

田中 「そんな僕、いまだってできないっすよ」

土橋 「それができるようになるんだ。そうなると、バトルはさらにはげしくなっていってね」

新藤 「ヒデはいってたよな、パスは速くなきゃけないってさあ。でもやろうとしていることは悪くないけど、パスが速すぎて、味方が受けられない。だからいったんだよ。味方を見てパス出せって。ヒデは相手の嫌なとこ、嫌なとこを狙ってるからね、見てるところと違うところにパスするから味方も読めないんだ。フォワードの清水良太郎なんて、ぼろくそいわれてたよな」

田中 「見てて、可哀想でした。パスがずれたりすると、ダメだって感じて首振るんです。それをされると僕もあちゃーってなっちゃって。僕、(心臓を指して)ここが弱いっすから」

土橋 「それで上のヤツとよく言い合いしてたなあ。ヒデ、試合中もあからさまにいうんだ。走っとけよ! って。先輩は先輩でこんなん取れねえよ! なんて」

田中 「びっくりしましたよ。初めて見たとき、中田さんだけ先輩のこと呼び捨てにしてたから」

土橋 「普段は他のヤツにはさん付けしてたけど、僕のことだけドバちゃーんって」

新藤 「ヒデが韮高に入学したときの話、知ってる? 運動部のための特別枠があるだろ。もちろん試験はあるけど、ハードルが低いんだ。学区内の最低の線を下回らなきゃオーケー、500点中270点くらい取ればいいんだ。で、ヒデにそのことを話したら、僕はそれでは行かない。特別枠じゃなくて、普通に受験していくんだって。でも、彼は学区外だから420点くらい取らないとダメだったんだ」

田中 「(小声で)土橋さんは何点くらい・・・」

土橋 「俺に聞くな!」

新藤 「ヒデはねぇ、460点くらい取っちゃった」

田中 「マジっすか!」

土橋 「ヒデは数学好きだったみたいで、何でって聞いたら、必ず答えが出るからだって。国語とかあいまいじゃない。でも数学は基本ができれば解けるじゃん。面白いよだって。俺にはわからねえ。

新藤 「当時の数学の先生なんて、解答用紙から中田の名前消して模範解答ですよって生徒たちに配ったこともあるんだよ」

土橋 「一緒に電車通学していたとき、試験前でもないのに単語帳めくっててね、これ何語って聞いたら、イタリア語だよ、喋れたら面白いじゃんって。今思うと自分で目標を設定して準備してたんだな」

田中 「へえ」

新藤 「計画的なんだよ。ヴェルディ川崎を除く全チームから誘いがあって、彼は最後に4チームに絞ったんだ。そこで練習に参加するわけだけど、1チーム3日間参加したいという。就職活動のための公欠はとれるけど、それにしても何で3日間なんだって聞くと、1日目の練習が2日目にどう生かされて、さらに3日目には、そういう過程を知りたいんですと。高校生の考え方じゃないよな。それに、先生、プロはグランドに立ってこそプロですよ。平塚ならすぐに出られるからってさ。凄いでしょ。でも、もうあまり帰ってこないよな。家に帰ることはあってもお忍びだから。あの横山先生が以前、なんで帰ってこないんだって聞いたら、山梨に帰ればサッカー上手くなるんですかっていったらしいよ」

土橋 「俺は今村と、ヒデが帰ってきたら3人でメシ食いに行ったりしますよ」

田中 「マジっすか、帰ってくるんですか!メシ食うんすか!」

土橋 「ヒデが買い物したいっていうと、僕ら3人で見に行ったりするんだ。でもあのまんまの服装で帰ってくるから、たまにバレる。でも、意外と気づかれないんだ。中田じゃねえのなんて周りは囁いているんだけど、まさかって」

新藤 「まあ、彼に山梨のイメージがないっていうのは、いままで報道関係とのトラブルなんかが根っこにあるんだろうな。それが、あの子の心を閉ざす原因になってしまったというか。高校時代は本当に普通の高校生だったんだけどなあ、たしかに凄かったんだけど」

取材が終わるころ、校庭はすでに真っ暗になっていた。ついさっき出てきた教官室を振り返ると、新藤が笑いながら五部刈りで日焼けした田中の肩をぐいぐい揺さぶっていた。こんな感じでやり合っていたのだろう。

「なんだ、田中、全然喋らなかったじゃないか!」

「うわー、すみません、すみません!」

恐縮しきりの田中も、それを見ている土橋も何だかとても楽しそうだ。

それにしても・・・遠慮なくずけずけと物をいう中田が後輩であったとしたら、蚤の心臓を自負する田中の韮高ライフはどうなっていたことか。

 

この後もさらに中田物語は続く。

場所は韮崎の「プラネットアート」。韮高サッカー部OB2人が登場する。「昭和37年度卒業の清水正美は少々ぶっきらぼうに、昭和42年度卒業の雨宮勝巳は物腰柔らかな口ぶりで」と本に書かれている。

そして著者は峡南高校へ足を運び、中田が1、2年の時監督だった田原先生に話を聞いている。田原先生は峡南高校の教頭先生である。

最後に韮崎駅前の小料理屋「とこちゃん」で中田と韮崎について思いを巡らし、物語は完結する。

 

中田のルーツ、韮高を登場させるにあたり、横山先生がまず登場する導入部はスポーツライターとしての熊崎敬の力量を感じる。そして地元の中田の印象というのは、おおよそ書いてあるとおりではないかと思う。

(全文を打とうとしたけれど、膨大な量なので、このくらいにしておきました)