ニラニスタ発・蹴球思案処

蹴辞逍遥・晴蹴雨蹴

インターハイ中止

インターハイ中止

 

光の強さと同様に選手たちも強くなっていかなければならない季節なのに、納得のいかない全体主義と印象操作に惑わされているような日々が続いている。やり場のない苛立ちと焦燥感と不安が一緒になったこの時代が訪れるとは思わなかった。

 

正常な元の生活に戻った時、一番力を発揮しなければならないのは、スポーツである。もちろん政治や経済も絶対的に必要ではあるけれど、韮崎においてはサッカーの力は、そのまま街の力となる。活気であり、豊かさをもたらすものは、サッカーであり、その先頭にまず立たなければならないのは、韮高サッカー部である。そのことは、昨年の関東大会準優勝、インター杯出場の実績で、身に染みて感じたことである。韮崎は、サッカーが持っているスポーツを超えた影響力を他の土地より大きく受ける。

 

もともとサッカーは、世界では大きく影響を及ぼすスポーツである。ワールドカップではその国の経済が止まる。サッカーを見るために仕事に行かない。また勝ち進んだ時には国民の休日となる。サッカーそのものが政治の道具となったり、サッカーが原因で戦争になったりする。

 

地域の人が誇れる高校の活躍は地域を元気にさせ、人生そのものに豊かさをもたらす。「豊かさ」とはたくさんのお金があり、不自由のない暮らしができることではない。「これからの豊かさ」はそれだけでは「豊か」とは言えなくなってくるだろう(今もそうだけれど)。

 

話はコロナウイルスに戻り、毎日多くの死者が出ている。そのようなニュースを連日見たり聞いたりする中で、「サッカーと死」について考えた。

 

僕はそれほど見聞が広いわけじゃないが、サッカーほど「死のイメージ」をまとったスポーツを知らない。あれはいつ頃、定着したものだろうか。欧州の試合を見ていると、ひっきりなしに黙祷している。~略

あれだけひっきりなしだと「死を思うこと」「死者を思うこと」が、サッカーの試合の前に儀式化されている、という言い方すらしたくなる。

まあ、残念なことだけど、それだけひっきりなしに人は死ぬんである。クラブのOBとか関係者、地域の功労者、あるいはスタジアムの事故等で命を落とした不運な観客・・・。いや、サッカー、フットボールと直接関係なくテロ等の被害者を悼んでというケースもあるが、多くの場合はホームゲームのクラブ史に名前を残すような方であったりする。

引用 えのきどいちろう

 

現役の選手は、多くの貴重な時間を失ってしまった。今も失い続けている。「失われた時間」は死んでしまった時間であり、取り返すことはできない。オシムは「黙祷もまた音楽だ」と言っている。沈黙の先には明るい未来があると信じたい。ここからは勝利することはオプションではなく、不可欠に変わってしまった。技術や戦術ではなく、感情の問題となってくる。

 

 

永遠の命があるつもりで夢を抱き

今日限りの命と思いながら生きろ

ジェームス・ディーン