ニラニスタ発・蹴球思案処

蹴辞逍遥・晴蹴雨蹴

見ているものは同じでも、見えているものが違う

見ているものは同じでも、見えているものが違う

 

自分がボールを持っている。周囲には見方、敵、ゴールが視野に入る。見えているものは同じである。後天的に身に付けたスキルによって、その状況におけるプレーの選択は違ってくる。おそらく最終的なプレーの決断の相違は、個々の選手によって、見えているものが違っているからだろう。何が正解で何が不正解かは関係なく、その状況において見えているものが違っていることが、決定的なプレーの質に関わってくる。スペースが見えている選手がいるだろうし、相手の重心がどちらの足にかかっているかが見えている選手がいるかもしれない。

 

僕がオシムの次に好きな監督は、カルロ・アンチェロッティである。オシムがサッカー哲学者なら、アンチェロッティは文学的サッカー人格者である。今でこそ世界の名監督の1人となったけれど、僕は現役時代のアンチェロッティも印象的であった。初めにアンチェロッティに興味を持ったのは、単純に名前がかっこいいというだけだった。

そのアンチェロッティが興味深いことを書いている。

 

レアル・マドリードでのある日の練習で、選手のひとりが私の許可なしに突然ピッチを後にし、ロッカールームに戻ったことがあった。私は後で、彼のところに行き、「君は練習をしないといけない。こんな行動をとったことを知られない方がいいんじゃないか?」と言った。

すると彼は、ある選手が練習時に一生懸命やっていないこと、彼がチームメートをごまかしていたことについて不平を言った。

私はこう答えた。「今日は16人の選手がいた。なぜ君はまじめに練習していないひとりの選手に注目したんだ? ほかの14人の選手たちはしっかりやっていた。どうして君は、走らない、仕事をしない選手のことを私に話さなければならない? どうしてその選手を選ぶんだ? どうしてピッチ上のワールドクラスのプロ意識を持った選手を見ない? 今日、態度の悪かった選手に注目するのはやめろ。これは単なる君の言い訳だ。君は、適切に働かない選手がひとりいるので、君も同じようにできると考えている。偉大な選手たちはこんなことはやらない。~略

もしロナウドのように評価されたいのなら、何年にもわたってシーズン60ゴールをあげなければならないと言った。「君はロナウドを手本にしないといけない。君は態度を変えるべきだ。練習に真摯に取り組む選手に注目するんだ」と。

彼は頷き、分かりました、と答えた。

 

サッカーの試合でも練習でも、目に入ってくるものは同じである。違うのは見えているものである。人生も同じである。現在、コロナの戦時下にいる状況で、何が見えているのだろう。SNSで上げ足をとる発言を発信している人間や、現状に不平不満ばかりを持っている人間が多くみられる。この状況で、何が見えているのだろう。アンチェロッティの言葉は、そのまま人生を生きていく時にも役立つ。

しっかり見れば、見えてくる。