ニラニスタ発・蹴球思案処

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止まっている時間

止まっている時間

 

こんなに長くサッカーが止まっている異常事態に陥っているのは、生涯初めてのことである。コロナの戦時下に置かれ、戦時下というものはこういったものなのかなと感じたりもしている。

 

小学生からジュニアユース、高校、アマチュアサッカーから、世界のトップであるプロまで、全てのサッカーの試合が行われていない今を、どのように受け入れ、どのように過ごすかは、大人でも難しい。

初めは「トレーニングななくなってラッキー」と思っていた日々から、いつリスタートできるか分からない不安と焦燥感が募る日々となっている。メッシやクリロナは、試合の行われないこの空白をどのように感じているのだろうかと思ったり、試合のある週末を楽しみにしている世界中のサポーターは、どのような生活を送っているのだろうと、訳もなく考えたりする。

 

僕の場合は、70年代のサッカー、80年代のサッカーを駆け足で復習し、93年Jリーグ開幕とドーハ前後、98年W杯初出場、2002日韓ワールドカップ開催につながる日本サッカー史を(ちょうどよい機会なので)ざっくりと勉強した。改めて加速度的にサッカーを取り巻く状況が激変している現代であると思う。

 

78年W杯優勝国のアルゼンチン代表監督セサル・ルイス・メノッティは「80年代のサッカーはどのように進化するか」という質問に次のように答えている.

サッカーという「もの」は存在しない。サッカーをする人間が存在するだけだ。これは愛情と同じだ。愛情そのものは存在せず、愛し合う男女が存在し、人間として成長していく。進歩するのはサッカーではなく、サッカーする人間の能力、すなわち、技術、インテリジェンス、勇気といったものが進化しなければならない。

現在、コロナウイルスの影響でサッカーが止まっている。当たり前だったサッカーを教えてもらえる場はない。仲間と草サッカーをするくらいかもしれない。その場こそもしかしたらチャンスかもしれない。遊びの中から生まれる発想の豊かさを育むことができ、自由な発想でサッカーができる状況であると言える。そしてサッカーの素晴らしさを再認識できるかもしれない。サッカーの見方、考え方は多種多様で、様々な光の当て方がある。選手としてファンとして間口の広いサッカーをじっくり考える良い機会である。今こそ、勤勉に学び考える時であると思う。