ニラニスタ発・蹴球思案処

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感謝の味

感謝の味

 

新型コロナウイルスが世界のサッカーに大きな影響を及ぼしている。Jリーグが中断されたと思ったら、欧州5大リーグとCLも中断、延期となってしまった。ユーベ、チェルシーの選手、アーセナルの監督まで感染してしまい、すごいことになっている。今年一番楽しみにしているEURO2020も開催が危ぶまれている。つい先日のリバプールアトレチコに興奮していた時間が遠い昔のような気がする。なんか時間が止まってしまったみたいである。

 

欧州のサッカーが動かなくなってしまったので、普段あんまり考えることのないサッカー関連のことをいろいろと思案していた。その中で昔からしっかりと自分の中で考えてみようと思っていたことがありその1つが「感謝」についてである。まずもって僕自身が「感謝」という概念から程遠い人間であったので、感謝についていろいろと述べることは気が引ける。タイミングが良く、日本スポーツ協会発行の『Sport Japan』Vol48の中で「人のため?自分のため?スポーツにおける感謝とは」が特集されていた。

 

トップアスリートのインタビューなどで感謝のことばを口にするプレーヤーを、近年、なんと多く見かけるようになったことだろう。一方、日々のスポーツにおいても、感謝の大切さを説く指導者は少なくない。

はて、なぜスポーツには感謝が必要なのか。その意味を問えば、より深い導きが、また見えてくる。

 

 

特集記事によると、「スポーツと感謝の研究は、日本ではあまり進んでいないのが現状で、海外でも感謝それ自体の心理学の研究は2000年代に入ってから活性化されてきた」ようである。長い人類史上で見れば、宗教や哲学、そして道徳では研究というより常識の範囲である。「逆説的に言えば、感謝が見えにくい世の中になったから」であり、「現代のような競争社会にいては、感謝の思いが当たり前のこととして享受しにくく、言及されなければ伝わりにくくなった」といえるかもしれない。そうである。

 

例えば、感謝の思いがあることでバーンアウト燃え尽き症候群)が抑えられる。これは、物事を成し遂げたとき、スポーツをやっていたその意味を感謝の気持ちが補てんしてくれる。予期せぬネガティブなことにも対応しやすくなると考えられている。

 

違う記事には、剣道には「打って反省、打たれて感謝」という言葉がある。同じスポーツでもサッカーとは全く違う世界観があり、剣道で大切にされている「残心」というものもあるようである。武道である剣道についてはこれからのサッカーのヒントがあるような気がする。

 

では、サッカーとはいかなるものであるか?

例えば、いまここにコップ一杯の水と一つの角砂糖がある。水が人生だとしたら、サッカーとは、一つの角砂糖のようなものである。

固い立方体の角砂糖を水に落とした瞬間、角砂糖は溶けてコップ全体の水が甘くなる。これは、角砂糖が水に影響を与えたということである。サッカーが人生に与える影響も似たようなものだ。サッカーは、そのままでは無味無臭である人生に、何らかの「味」をつけ加えるからだ。つまりサッカーは、七十年八十年という人の人生に対して、一つのとても大きな影響を与えることになる。

『日本人よ』イビチャ・オシム 

 

改めて、サッカーが止まっているこの期間、当たり前に日常が動いていたことに感謝をしなければならない。普通にサッカーができること、そして普通に苦しむこと、普通にご飯が食べられること、普通に生活が送れるということは、普通なほどに意識しづらい。

水に溶かされた角砂糖のコップの中に、感謝を入れてみるとどのような味がするのだろうか。しばし思案することで、サッカーの幅なり奥行きが広がるかもしれない。