ニラニスタ発・蹴球思案処

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希望

希望

 

新年に読んだ小説の中で、心に留まった言葉があった。明日、生きているかどうかが分からない状況にあり、主人公と別れる時の最後の言葉である。

 

ひとつだけ先輩として忠告しておこう。どんなときにも希望を捨てるな。希望なんてものははじめからあるものじゃない。人間はいつかは死ぬわけだし、すべてのものは変化する。だから希望は自分でつくりあげ、それを信じるしかない。約束された希望なんて、そんなものはないんだ。希望は自分自身で勝手につくりあげるものだ。どんなときにもなにかの希望を見いだし、その火を消さないように一直線に進んでいきたまえ。きみは若い。どんな失敗もゆるされる。挫折したらもういちど立ちあがればいいんだ。

迷ったら前へ進め。

無責任だが、おれはその言葉をきみに別れのはなむけとして贈りたい。

では、またどこかであおう。

希望という言葉に引っかかってしまって、座右の書である『人生論ノート』を手にとって希望について考える時間を得た。

人生においては何事も偶然である。しかしまた人生においては何事も必然である。このような人生を我々は運命と称している。もし一切が必然であるなら運命というものは考えられないであろう。だがもし一切が偶然であるなら運命というものはまた考えられないであろう。偶然のものが必然の、必然のものが偶然の意味を持っているが故に、人生は運命なのである。

希望は運命の如きものである。それはいわば運命というものの符号を逆にしたものである。もし一切が必然であるなら希望というものはあり得ないであろう。しかし一切が偶然であるなら希望というものはまたあり得ないであろう。

人生は運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって生きていることは希望を持っていることである。

現在、高校サッカー選手権の大会の真っただ中である。「韮崎高校が選手権に出場すること」は考えてみると、やはり希望であると思う。選手たちは目的であり、応援する者は願望であり、多くの者は期待している。

新年早々、仲間から「ブログも更新しないで、サッカーから逃げているな。目を背けるな(寅さんの映画を観に行っている場合か)」と厳しい電話がきた。昌平や静学の試合を見に行って気合いが入ってしまったらしい。

言い訳をするわけではないけれど、素晴らしい試合をネットで見ていたし、見たいときに見ることができる良い時代になったなと感慨深く思っていた。

今年は韮高が選手権に出場するという希望をもって生きたいと思う。

 

 がんばれ韮高サッカー部