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『ルカ・モドリッチ』 永遠に気高き魂

11月サッカー本
 
ルカ・モドリッチ』永遠に気高き魂

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著 者 ビセンテ・アスピタルテ
    ホセ・マヌエル・プエルタス
訳 者 江間慎一郎
発行所 カンゼン
2018年11月29日発行
 
発売されて1ヶ月と経っていない新刊である。ロシアワールドカップではMVPに輝き、レジェンドとなったルカ・モドリッチの伝記である。この本は、名実ともに世界のトッププレーヤーになったルカ・モドリッチの生い立ちから、幼少期、そしてサッカー選手としてキャリアを築き上げる今日までのサクセスストーリーである。
 
90年イタリアW杯、オシム率いるプラーヴィが強烈であったため、僕は一気にユーゴスラビアという国が好きになってしまった。したがってこの本も必然的に読まなければならない本となった。91年にはトヨタカップで欧州代表としてレッドスターが来日した。しかしユーゴスラビアは崩壊の一途をたどっていて、内戦が激化していた。そして92年のユーロでは参加資格をはく奪されてしまった。
 
ルカ・モドリッチは1983年生まれで、幼少期がちょうど内戦と重なった。95年にクロアチア軍が全土を制圧するまで、ルカ・モドリッチは戦争難民として育った。個人的には(いつもそうなのだが)、プロになるまでの生い立ちから思春期に興味がある。そして間違いなくこの本でもそこが読み応えのあるところである。
 
ルカのおじいさんは、セルビア民兵に機関銃で撃たれてしまい、その現場を目撃したルカの父は故郷を捨てザタールを目指した。
 
天井のない場所で幾夜も過ごし、モドリッチ一家がたどりついたザタールは、3ヶ月以上も爆撃にさらされていた。
~略
1991年から1993年までの激しい爆撃の中で、水は定期的に供給されることなく、電気は200日以上も通っていなかった。
 
厳しい環境の中、ルカ・モドリッチが初めて着用したすね当ては木製で、父親の手作りだった。父親のサッカーに対する理解があったからこそ、ルカ・モドリッチはサッカーに打ち込めたのかもしれない。また父親は戦禍での苦しい生活の中で、息子のサッカーをする姿、打ち込む姿に生きる力をもらったのかもしれない。
NKザタールでのサッカーの練習場所は、軍の拠点になっていたので、爆撃の標的になっていた。
 
警報が鳴って爆撃兵器が降ってくるときには、定められた避難場所へと走り、真っ先にそこにたどり着いた者が偉大なチャンピオンになれたのだ。
 
戦争が終わり、有望な選手を対象としたフットボールキャンパスの参加料が払えない父親は、叔父にお金を借りてまで、息子のサッカーを後押しする。
そこから現在に至る、決して平たんでない道のりを歩んでいく。
 
日本とクロアチアもワールドカップでは何かと縁がある。ルカ・モドリッチが代表デビューでのワールドカップの試合は、06ドイツW杯の日本戦だった。また14ブラジルW杯では、オープニングゲームのブラジル―クロアチア戦で西村が主審で笛を吹いている。
 
クロアチアの10番を背負い、レアル・マドリードの10番を背負うルカ・モドリッチのプレーは、見ている者を惹きつける。チームのための献身的プレー、高い守備力、速そうで速くない柔らかいドリブルは、ボールを取れそうで取れない。何より好きなプレーは、右足のアウトサイドから繰り出すパスである。左足で蹴れるのに・・・と思っても右足アウトで芸術的なパスを出すモドリッチのプレーが好きである。ロシアW杯のアルゼンチン戦でのミドルは強烈だった。
僕はルカ・モドリッチというフットボーラーに強く惹き付けられる。激しくそれでいて上品なプレー、プレーそのものでチームを引っ張る姿、「普遍的なMF」と呼ばれても不思議はない。
 
この本は、ルカ・モドリッチの半生がしっかりと記述されている。サブタイトルの通り「永遠に気高き魂」である。モドリッチのメンタリティーはすざまじいものがある。

戦争で苦しんだ後、クロアチア人はより強く、よりタフになった。あの経験は生半可なものではなかったんだ。僕たちを打ち倒すことは簡単ではないし、こちらには成功を収められることを示す断固たる決意がある。
 
ルカ・モドリッチは2011年のインタビューで語っている。ルカ・モドリッチバイオグラフィーは一読に値する。