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『サッカーという至福』

2月サッカー本
 
『サッカーという至福

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著 者 武智幸徳
発行所 日本経済新聞社
1999年7月23日発行
 
日本経済新聞社から、サッカー本が出版されると話題になった本であり、3年後には文庫本になった実力のある本である。今でこそ、著者である武智幸徳氏はサッカー界でも有名な記者であるけれど、この本が出版される前までは知る人ぞ知る、文学的な匂いのするサッカーの文章を書いていた記者であった。多くのサッカージャーナリストが執筆する文章と違った視点から書く文章が、支持される理由であるのではないかと思う。
 
目次
1 ワールドカップは魅了する
2 Jリーグを考えよう
3 日本代表
4 サッカーの楽しみ
 
各章の中には、さらに小さなセンテンスに別れ、始めから終わりまで楽しみながら読める。サッカー以外の知識が豊富で、サッカーに対するメタファーにとても共感し、感服する。そして考えさせられる。
特に考えさせられたのは『フェアプレー、プリーズ』である。国語の教科書に載っていてもおかしくない名文であると思う。
 
【一部抜粋】
 フェアプレーについて、大切なことは倫理観を持つことだと思ってきた。自分の「外」にある文字で書かれたルールや審判に依存するのではなく、自分の「中」に自分で作り上げた、明確なルールを持つことが大事だと。自分の「中」に作り上げたルール、つまり倫理観や規範がフェアプレーの土台になるのだと。ペレやボビー・チャールトン、ゲリー・リネカーがフェアプレー精神の体現者として称されるのは、彼らが文字で書かれた規範を順守したからではなく、サッカーの規範を包みこんでそれよりさらに大きな倫理観を有していたからだろう。彼らは“法の抜け穴”を見つけてもそこを突破しようとせず、法の不備を自らの倫理観で補修した。彼らが審判の見えないところで汚い反則をしなかったのは規則がそれを禁じているからではなく、彼らの倫理観がそういう振る舞いを許さなかったのだろう。自分の中に美醜や善悪の基準がきちんとあって、決して醜態な世界には踏み込まないという強い意志。そんな自制心があるから、どんなひどいタックル、審判のひどい判定に遭っても不平を鳴らさず、ぶれのないプレーを続けられたのだと思う。
 
この後、文章は「倫理観」について、相手をつぶすことへの異様な執念やチームの勝利のための献身も、一種の倫理を感じてしまうと続く。そして「試合の中でフェアプレーに出会うことは、お年寄りや妊婦に電車の中で席を譲る場面を見る回数くらい少ない」と綴っている。そして「フェアプレーはスポーツ選手の特権でも義務でもない。彼らに必要なら、私たちにも必要であるべきだし、私たちに必要ないのであれば、彼らにも望むべきではない」と締めくくっている。
 
「サッカーを考える」名著の中の一つであることは間違いない。