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『夢は叶う』

12月サッカー本
 
『夢は叶う』

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著 者 斎藤重信
発行所 ベースボールマガジン社
2007年10月30日発行
 
第85回全高校サッカー選手権大会で、岩手県勢としては初めての優勝を成し遂げた、盛岡商の監督である斎藤先生の名著である。37年の教員生活、翌年には定年を迎える1年前に、全国の頂点に立った。サッカーと歩んだ斎藤先生の生き様が書かれている。
 
この本には「高校サッカーの真理」が書かれていると思っている。そして随所に琴線に触れる素晴らしい言葉が散りばめられている。最後まで通読し、タイトルの『夢は叶う』という言葉を目にすると、その言葉の重みが味わえる。
 
斎藤先生の高校サッカーに対する情熱を一番感じる所がある。それは盛岡商から大船渡に転勤をした時のことである。斎藤先生の下でサッカーをしたいという中学生がいたことで、単身赴任のアパートに4月から一緒に暮らすことになる。
【本文引用】
選手を下宿させるとなれば、食事の面倒を見なければなりません。盛岡では家内がいましたが、こちらでは自分で何とかしなければなりません。~略~ 練習が終わったらスーパーに買い出しに行く。ご飯はタイマーにかけてば良いので、あとは晩飯のおかずに、次の日の朝飯や昼の弁当の準備もしました。
 
大船渡では9年、選手たちと共同生活を送る。教え子の食事まで面倒を見ることに驚く。普通の人間なら、ここまではできない。
 
個人的な思い入れになってしまうけれど、名門であり伝統校の盛岡商を率いている斎藤先生と韮崎高校について書き留めておく。
 
昭和56(1981)年、学校としては19年ぶり2回目、斎藤先生としては初の選手権出場を果たした。その翌年2年連続で全国選手権に出場する。その時、盛岡商はベスト8に進出する。国立の舞台を懸けて準々決勝で対戦したのは韮崎高校だった。
【本文引用】
準々決勝の相手は山梨の韮崎でした。前年の準優勝チームであり、過去3年連続で国立競技場に進んでいる強豪中の強豪です。前年も2年生ながら大活躍し、大会の優秀選手にも選ばれていた羽中田昌、保坂孝の二枚看板が健在で優勝候補でした。しかし羽中田は体調を崩しているということでベンチに座っていました。私はそのことを発奮材料に選手に檄を飛ばし、「羽中田を引っ張り出せ。ベンチに座っている羽中田が出てこなければいけないような試合をするんだ。そうすれば勝てる」と暗示をかけたのです。
 しかし、ことはうまく運びませんでした。やはり相手が一枚も二枚も上手だったのです。韮崎の攻守の切り替えの速さについていけず、開始5分で失点。前半27分にも保坂にも抜け出されて2点のリードを奪われてしまいました。が、選手たちは気落ちせず奮闘し、前半37分に相手の連係ミスをついて森川が1点を返しました。1点差で迎えた後半も体を張ってよく守り、相手の追加点を阻みます。しかし、こちらが同点にするチャンスもなかなか作らせてもらえず、結局1-2のままタイムアップとなり、羽中田を出場させることもできませんでした。
 
昭和61(1989)年、山梨かいじ国体が開催される。斎藤先生は岩手県選抜を率いて韮崎にやってきた。
【本文引用】
 1回戦は島根県を1-0で破り、2回戦は地元山梨県にも1-0で勝ちました。全国選手権などで何度か煮え湯を飲まされていた韮崎の横森巧監督率いるチームを倒して恩返しができたのです。
 
この岩手選抜はかいじ国体でベスト4まで進んだ。僕はその試合を見ていた1人だった。信じられない敗戦を目のあたりにし、呆然としていた僕の前を、岩手選抜を引き連れて斎藤先生が通り過ぎたのを覚えている。そのグランドは韮崎高校だった。
 
斎藤先生が大船渡高校時代、いまや鹿島のレジェンドとなった小笠原満男を中心としたチームで、韮崎で開催されたインターハイに出場した。2回戦で小野伸二がいる清水商と対戦し、1-3で逆転負けを喫した。
 
高校サッカーに情熱を注いだ斎藤先生の生の言葉が書き留められているこの本は、高校サッカー本の中でもとびきり秀逸である。夢は見るものではなく、叶えるものだと、この本を読んで改めて思う。