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『たかがサッカー されどサッカー』

7月サッカー本
 
『たかがサッカー されどサッカー』70年余を顧みる

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著 者 横森 巧
発行所 山梨日日新聞社
2017年7月27日発行
 
恩師、横森巧先生(監督)の本が出版された。発売日は監督の誕生日である。この本の感想は、あまりにも多くの事が書かれているので、正直言って上手くまとめることが出来ない。
 
第1章 「たかがサッカー されどサッカー」 70年余を顧みる
第2章 「巧のサッカー人生」その“となり”に居て
第3章 横森監督の指導を受けて 教え子たちの回想
 
僕自身、この本の中に書かれている時代の中の、一時代にサッカーをした人間なので、本当にいろいろなことがありすぎて、現在でも総括はできないし、客観的に振り返ることもできない。
特に僕らの時代は、この本で振り返る限り、監督が人生の中で一番サッカーに行き詰まった時期であり、一番悩み苦しんだ時期でもある。
「なぜ勝てなかったのか」という問いに関しては、永遠に答えは出ないのではないかと思う。勝てない原因を「これだ」と断定するのは危険である。その時の時代の背景や、目の前にあった多くの諸要素、または目に見えない小さな事象が積み重なり、なおかつ複合的に絡み合い、「勝てない韮高」になってしまったのではないかと思う。
 
第1章の監督の心の言葉はもちろん身に沁みるけれど、第2章の横森岑子夫人(先生)の文章も心に沁みた。僕は中学時代、岑子に教えてもらったので、そう感じるのかもしれない。監督に一番近い岑子先生の視点は、僕らにはないものであり、とても貴重である。
 
第3章の「教え子たちの回想」も、その時代を如実に物語るものであり、生き証人の言葉である。韮高OBに限って言わせてもらえば、監督が山梨学院で全国制覇した偉業は、みんながみんな手放しで喜んでいて、本の中に頻繁に記されている。
「温故知新」という言葉があるけれど、この本は横森監督の韮崎高校の時代を知るための一番の本である。韮高サッカー部の歴史の中で横森監督の時代は14年である。しかしその14年間を今、この時代に振り返ることは、新しく前を向いて突き進んでいる韮高サッカー部には、必要な作業であると思う。
 
 
*横森監督が山梨学院の監督となり、全国制覇した時に綴った文章が以前のブログにあったので、ついでなので載せておく。
 
 
山梨学院全国制覇 恩師 横森巧監督 【2010.1.12】
 まず始めに、横森監督に指導を受けた韮崎高校サッカー部OBとして、山梨学院の選手、関係者すべての方々に感謝を申し上げます。
 本来ならば、韮崎高校時代に、国立の舞台で横森監督を胴上げをしてあげなければならなかったのですが、5年間で3度の決勝進出をしてもその悲願は達成できませんでした。
 
 まだ、サッカーマガジンサッカーダイジェストでの付録が、世界の名プレーヤーのポスターだった時代、選手の名前を知っていてもどんなプレーをするのか分からず、テレビ東京のダイアモンドサッカーも山梨では映らなかった時代のことです。
 
 そんな時代に、純粋で多感なサッカー少年たちに夢を与え続けた存在が、横森監督率いる韮崎高校サッカー部でした。
 私が小学校4年から中学2年まで、韮崎高校サッカー部が国立でプレーする勇姿を目にしました。純粋で多感なサッカー少年に、その勇姿は強烈にサッカーを好きにさせ、そして韮崎高校でサッカーをするというしっかりとした目標を持たせてもらいました。
 
 「韮崎高校で横森監督にサッカーを教えてもらいたい」、「韮崎高校で全国制覇をしたい」。自分の目標をしっかり定め、一心不乱にサッカーに打ち込みました。そんな強いハートにさせてくれた方が、横森監督でした。
 
 横森監督率いる山梨学院が山梨県大会で、準決勝で韮崎高校を破り、決勝で日本航空を破りました。敗れた二校の監督は共に監督の教え子でした。サッカーに対する情熱の勝利だと個人的には思っています。
 県代表になった山梨学院が、一回戦、野洲高に4-2で勝利し、いつの間にか決勝の檜舞台に立っていました。
 
 四半世紀の時を経て、横森監督が国立の晴れ舞台に戻ってきました。「なぜ、国立競技場がサッカーの『聖地』と呼ばれるのか。それは人々の記憶にいつまでも残るゲームが何試合も行われきたからだ」と羽中田さんが言っています。
 そして歴史的瞬間をこの目で実際に見ることができる瞬間がやってきました。その瞬間とはゴールシーンではく、横森監督が国立の舞台で宙に舞う瞬間です。
 
 個人的には生涯の想い出のベスト3に入る瞬間です。山梨県は野球、ラクビー、バレーと高校生の脚光を浴びるスポーツで全国制覇を達成したことはありません。全国制覇の瞬間、そして横森監督が宙を舞う瞬間を見逃すわけにはいきません。しっかりと会社を休みました。
 
 我が父もこの瞬間が見たいということで、国立に行きました。もちろん息子も一緒です。私が初めて国立で韮崎高校のサッカーを見たのも小5でした。
 韮崎高校を蹴散らし県代表になった山梨学院ですが、私もグッドルーザーとなり、県代表として応援しました。
 横森監督率いる山梨学院が日本一になる瞬間をしっかりとこの目で見ようと、一サッカーファンとして歴史的瞬間に立ち会おうと思いました。
 
 国立競技場は27年前に清水東と対戦した時と同様、どんよりと曇っていました。黄色い芝生がきれいなグリーンに変わっている以外、四半世紀の時を経ても高校サッカーの雰囲気は変わっていませんでした。「振り向くな君は美しい」が流れ、チアガールが踊り、「燃える闘魂」を歌いながら応援する姿は、今も昔も変わりませんでした。
 変わっていないというと、因縁めいていますが、青森山田と山梨学院のユニホームは色まで27年前と変わっていませんでした。緑-白-緑の青森山田、青-青-青の山梨学院。27年前の韮崎と清水東のユニホームカラーとまったく同じです。妹が試合中、「間違って緑を応援してしまう」と言うくらいでした。
 
 前半11分、碓井のシュートが青森山田のサイドネットに突き刺さりました。横森監督自身、決勝戦での先制点は初めてでした。試合はシュートの打ち合いの中、山梨学院が我々の悲願、横森監督の悲願でもある日本一を達成しました。
 
 横森監督のインタビューを聞きました。そして横森監督が宙に三度舞う瞬間も目にしました。父も私も涙が出ました。素晴らしい歴史的瞬間に立ち会うことができて、本当によかったです。様々な人に感謝しました。
 
 最後にもう一度。山梨学院の選手には我々の成し得なかった偉業を成し遂げ、見事、横森監督を日本一の名将にしてくれたことに対して感謝申し上げます。本当にありがとうございました。
 
 最後の最後に期待を込めて・・・。
 我が母校、韮崎高校の国立での勇姿を見せて欲しいと強く願います。