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『必ず、愛は勝つ!』

6月サッカー本
 
『必ず、愛は勝つ!』

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著 者 戸塚 啓
発行所 講談社
2017年5月26日発行
 
羽中田さんを題材にした本が、発売された。サッカー関係者は僕より先に読了した。また同級生には羽中田さんが、直接持ってきてくれたと聞いた。新聞、ラジオでも山梨では宣伝されたので、この本の事は知っている方が多いのではないかと思う。
韮高サッカー部の現役部員が発売後1ヶ月内に、携帯を本に変えて読んだ部員がいるかどうかとても興味がある。
 
序 章 1983年1月8日 東京 国立競技場
第1章 1964-1980年 
「いま日本で一番サッカーがうまい」とい言われた少年
第2章 1980-1983年 3年連続の国立競技場 3度の不運
第3章 1983-1994年 突然の事故!奪われた黄金の左足
第4章 1995-2000年 バルセロナへ。そしてもう一度あのピッチへ
第5章 2000-2017年 車イス監督への凸凹道
 
この本は羽中田さんのクロニクル的なノンフィクション本である。しっかりとした取材としっかりとした文章で読む者を惹きつける。僕が知らなかったこともたくさんあった。羽中田さんが2年連続で全日本少年サッカー大会の優秀選手に選ばれた事や、選手権準決勝に向かう交通手段が電車だったことなどはそうである。
 
高校時代から現在までの羽中田さんの人生で、欠くことのできない重要人物はやはり横山昭作先生である。読んでいて、人生の岐路やターニングポイントでは、横山先生の存在が確認できる。
 
この本は、韮高サッカー部所属部員は必読の書だと思っている。奥さんであるまゆみさんが言うように「世界一目線の低いサッカー監督」の生き様を学ぶことは、とても意味深いことである。なぜならば、部員自らが韮高サッカー部に所属しているからである。
 
 
【読まない方が良い愚痴に近い感想・諸々】
この本を読んで、一番悲しかったことは第5章2000-2017年の章である。バルセロナから帰国し、サッカー解説者でもサッカージャーナリストでもなく「スポーツエッセイスト」として活躍し、02-06年まで暁星高校サッカー部コーチとして指導の現場に立っている。羽中田さん最後の年に暁星は13年ぶりに選手権に出場を果たす。そして開幕戦を引き当て滝川二と国立競技場で試合をした。23年前の決勝戦でプレーした地に指導者として戻ってきた(勝手ながら横山先生が一番喜んだのではないかと思う。対戦相手も滝二だったので)。
07年にカマターレ讃岐の監督のオファーが来た。暁星コーチ、讃岐の監督と僕への第1報はいつも横山先生だった。2年間の監督生活の後、東京に戻った。そこから韮高サッカー部監督招聘の話が動き出した。羽中田さんとしては問題は何らないのだけれど、金銭面から待遇など今では当たり前になった外部指導者の招聘へは、問題、問題の連続だった。あの当時は公立高校が外部指導者を招聘するということは前代未聞のことであった。私学では当たり前のことが公立高校では出来なかった。しかし高校野球ではサッカーより先に動き出していた。なんでサッカーがそのことに関して動きが鈍いのかが分からなかった。
僕は羽中田さんが韮高サッカー部の監督になるという情報を横山先生から聞いた時、バルセロナのようなサッカーを韮高がして全国制覇できるのではないかと本気で思った。とんとん拍子で進むと思っていた話は、どこで誰が何をしているのか分からないけれど、イライラするほどうまく進まなかった。羽中田さんを韮高の監督に迎え入れる動きは、本当に多くの人の莫大な労力がかかった。そして徒労とも言えるくらい悲しい結果となった。その時に携わった関係者のある人はもう二度と外部招聘はしないと言い、ある人は韮高サッカー部から手を引いてしまった。
 
(本文引用)
2011年、(平成23年)4月、羽中田は現場に復帰した。山梨県立韮崎高校サッカー部のコーチに就任したのである。
28年ぶりに訪れる母校のグランドでは、100人ほどの部員が3つのグループに分かれて練習をしていた。羽中田はそのうちの3番目のチームを担当することになった。
 
我が家に来て、横山先生はめずらしく怒った。羽中田さんを外部指導者として向かい入れたのに、指導するカテゴリーがCチームであったことに激しく怒っていた。僕は驚くと共に悲しくなった。韮高サッカー部を強くしようと思う気持ちは一つでも、一つにまとまらないことが哀しかった。年末には奈良クラブよりオファーが来て、1年間韮高サッカー部で指導しただけで、韮崎を去ってしまった。当たり前のことである。
2011年の羽中田さんの待遇問題が、現在の韮高サッカー部の成績に直結していると思っている。羽中田さんを韮高サッカー部の指導者にという動きを見てきた中で、僕としてももっともっと様々な角度から働きかけはできなかったのかとか、2年目の契約に結び付ける策はなかったのかとか思う。しかし全てが全て進む道は行き止まりだった。
(本文引用)
2011年(平成23年)コーチを務めた韮崎高校サッカー部には、監督として迎え入れられる予定だった。ところが、母校のサッカー部を取り巻く人々の間には、複雑な事情が絡み合い、様々な思惑が交錯していた。コーチとしての自分に、羽中田は納得するしかなかった。
 
横山先生と一緒に僕も怒った。母校のサッカー部を取り巻く人々って誰だ。複雑な事情ってなんだ、様々な思惑ってなんだ。監督にしない理由、出来ない理由ってなんだと、羽中田さんを監督にしなかったという判断に怒った。
世間では「羽中田が韮高の監督になった」と期待を込めて広がっていった。しかし現実はCチームのコーチだった。
車イス生活になってもなおサッカーというスポーツ惹かれ、バルセロナで修業し、U-18日本代表のコーチとなり(星稜時代の本田圭祐がいた)、日本初となる車イスのS級ライセンス取得者となった羽中田さんが、母校の再建を託されて韮高にやってきた。結果、あの待遇である。
 
昔のブログに綴られていたので貼り付けておく
【2011.2.8】
土曜日、東京からはるばる新人戦決勝を観に来たサッカー仲間の方と会えなかったので、電話をしました。その電話で素晴らしい朗報が飛び込みました。韮崎高校サッカー部もいよいよ復活の兆しが見えてきました。
 
なんと羽中田さんが韮高サッカー部の監督に内定したとのことです。
 
思えば、昨年の今頃から韮高サッカー部の復活に情熱を注ぎ、羽中田さんを監督にという活動をしていました。しかし最後になって話がなくなってしまいました。
 
「韮崎高校サッカー部に強くなってもらいたい」という強い愛情から、羽中田監督を諦めきれず、また行動を起こしました。サッカー関係者、その他多方面への働きかけにより、その情熱とサッカー愛がいろいろな方々を動かしました。細かい詰めの状況のようですが、本当に素晴らしい出来事です。
前校長は東大進学を目標に掲げ、スポーツには力を入れなかった方ですが、現在の校長は素晴らしい決断をしたと思います。今年が韮高復活のスタートになれることがうれしくてたまりません。山梨学院という強豪はいますが、監督力でチームを再生させてくれると思います。
 
【2011.4.9】
地道な活動を続けていた結果、ついに羽中田さんが、韮崎高校のサッカー部のコーチに就任しました。最終段階で監督になるにはいろいろな諸問題があり、コーチということですが、様々な人々の念願であった母校の指導者として、韮高のグランドに戻ってきました。
 
6日に契約を結びましたが、その前日には韮高のグランドに姿を見せました。会社の韮高サッカー部の先輩(羽中田さんの1つ上)が、「韮高のグランドにハチュウらしき人がいたぞ」と社内で教えてくれました。
 
5日に羽中田さんの姿を見ようと東京からもサッカー仲間が駆けつけました。練習終了後、選手達に声をかけて、「羽中田さんがどんな話をしたのか」と聞いてみると、
1、継続すること
2、楽しむこと
3、考えること
と3点を強調して言ったそうです。選手たちも以前よりははるかによい指導者に恵まれて本当に良かったと思います。
 
6日にも練習見学に行った方がいて、その方は羽中田さんを韮高の監督にするために様々な活動をしていた方です。練習後、マネージャーから羽中田さんがまさか韮高に来るなんてと、驚きと喜びを聞いた時には思わず涙してしまったとのことでした。
 
指導者は一新し、監督は前村さん(羽中田さんの2つ下)、石川さん(3つ上)、今村さん(中田英と同級生)。他山梨大学在学中の2名、宇都宮大学在学中の1名をスタッフにして、韮高サッカー部の復活に情熱を注ぎます。 
 
新入生も山梨ではトップクラスの選手が入って来たそうです。韮崎SCからもほとんどの選手が韮高に進学し、サッカーを続けます。個人的に残念なことは羽中田さんの同級生、鈴木さんの息子が山梨学院に進んでしまったことです。VF甲府ユースにも受かり、学院を蹴って、韮高に進んで欲しかったなーと思いました。
 
今後の韮高サッカー部に注目していきたいと思います。ある意味、韮崎市民の精神的財産である「韮高サッカー部」を復活させて欲しいと願います。

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この本は僕にとっては、とても重要な本である。羽中田さんの現役時代は置いておいて、できればこの本に、指導者のキャリアとして韮高でのサクセスストーリーが書かれれば最高だったのに、と思う。外部指導者の招聘では羽中田さんの時と同じような愚行を犯すことなく、戒めの書として読みたい。