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『空っぽのスタジアムからの挑戦』日本サッカーをメジャーにした男たち

3月サッカー本
 
『空っぽのスタジアムからの挑戦』日本サッカーをメジャーにした男たち

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著 者 平塚晶人
発行所 小学館
2002年5月1日発行
 
今年になり相次いで日本サッカーに人生をささげた昭和の偉人の訃報があった。1月にはこれから紹介する本の主人公である木之本興三氏(68歳)、2月には岡野俊一郎氏(85歳)。謹んでお悔やみ申し上げ、哀悼の意を込めこの本を紹介する。
 
この本は日韓ワールドカップが開催される02年の5月に出版された。木之本氏はこの時点で人工透析の世界一を樹立していて、翌年03年には両足切断をした。「Jリーグを命がけでつくった男」として有名である。木之本氏がいなかったら、今のJリーグは存在しない。26歳で日本に12例しかない難病で余命宣告を受け、そこからサッカーに身を捧げる人生を送る。
 
Jリーグ誕生秘話的な本の類は、たくさんではないにせよある。その本のほとんどは88年の第1回JSL活性化委員会以後の話からJリーグ誕生までである。しかしこの本はそれ以前の話が9割方で、活性化委員会が発足してからは駆け足で流れる。日本サッカーのプロ化に向けてJSL活性化委員会を発足させるまでの貴重な史実が書かれている。
 
僕の好きな第4章「小川町の密談」がある。当時、日本サッカー協会の入っている岸記念体育館はアマの殿堂である日本体育協会の牙城である。そこからJSLの事務所が小川町に移された。木之本と事務員2名しかいない事務所には、3人以外に誰もいないということは稀だった。運営委員、マスコミ、サッカー関係者などがそこに集った。本文には「いつしか小川町の事務所はJSL関係者のサロンのようになっていた」とある。そして月1、2回のペースで「茶話会」と呼ぶ自主的会合を開くことに発展していく。「サッカーのあり方」の議論はとても興味深い。
 
~本文抜粋~
サッカー担当記者の中には、サッカー関係者よりも豊富に世界のサッカーシーンを見て、そこでの見聞をもとに、海外の運営システムやサッカー文化そのものを勢力的に日本に紹介する者もいた。読売の牛木素吉郎、朝日の中条一雄、毎日の荒木義行らである。彼らの書く記事に共通していたのは、単にサッカーシーンを報じるだけではなく、日本のサッカーのあるべき姿はこうだという主張がこめられていたことだった。~略~
新しい世代のサッカー記者の中心となったのは共同通信社の小川敏昭だった。80年代に入ると、小川に引っ張られるように、さらに若い世代の記者たちも、サッカーをマイナー競技から脱却させようとする動きに積極的に加わり始めた。NHKの松浦徹、毎日の山本俊一、報知の佐々木信和、日刊スポーツの黒木博一、荻島弘一、日経の武智幸徳たちである。彼らはひんぱんに小川町の事務所に足を運んだ。そこでのサッカー界のあり方を雑談を交えて語り、さらに茶話会の議論にも加わった。
 
Jリーグ誕生まで様々に名前を変え、最終的には「プロリーグ検討委員会」にまで発展した。しかしJリーグの骨子は、小川町の事務所の茶話会で話された事がそのまま活かされている。木之本氏の開かれた人間性が作り上げた小川町サロンという環境は素晴らしいものであると思う。「サッカーの仲間よりも、サッカーそのものを大切にする」という木之本氏の深い言葉がそれを表している。
 
著者平塚氏は「あとがきで」の書き出しで「私はこの本を、できればアンチサッカーの方々に読んでいただきたいと思う」、「それまでの日本におけるサッカーの地位はあまりに不当なものだった。競技本来の魅力に見合うだけの扱いを求めて、サッカー界が行動を興すのは当然である」と綴っている。
 
サッカーのプロ化はサッカーの存在そのものをひっくり返した。サッカーのプロ化は、スポーツ界どころか、この20年の間に日本全体で起こった最大のプロジェクトだと私は思っている。これほどドラスティックに物事の価値観がひっくり返ったことがかつてあっただろうか。
 
木之本氏の情熱が周りの仲間を突き動かせ、Jリーグを誕生させた。今あるサッカーの環境は木之本氏の功績なくしてはあり得ない。今年でJリーグ誕生25年になる。しかしサッカーが持つ本来のポテンシャルや魅力は、こんなものではないと思っている。まだまだ日本におけるサッカーの価値は上がり続けるものと考えている。