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『勝つために何をしたか』

1月サッカー本
 
『勝つために何をしたか』

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著 者 志波芳則
発行所 日刊スポーツ新聞社
1999年1月10日発行
 
東福岡が衝撃的なサッカーを高校サッカー界に展開し、すっかり赤い彗星として定着してしまった感がある昨今である。東福岡のサッカー部と言えば、志波先生である。今から18年前に志波先生が本を出版した。この時期、東福岡は高校サッカー史上初、高校総体、全日本ユース、全国高校選手権の3冠を成し遂げたことで脚光を浴びた(これ以来、現在まで東福岡は高校サッカーの中でも一際、脚光を浴び続ける存在になっている)。普通、本が出版され年月が経つと本の価値は下がるけれど、この『勝つために何をしたか』は未だに値段が下がらないサッカー貴重本の一つである。
 
この本の素晴らしい所は、著者の志波先生のサッカー観が自らのサッカー人生を振り返りながら、率直に書かれている所である。その文章は志波先生の人間性が滲み出ている。本書を本の中に出てくる文章でまとめると以下のようになる。
 
「サッカー選手である前にひとりの高校生として、人間としてどれだけ成長できるか、それを見守るのが仕事である」
 
プロローグ
第一章 終わってみれば三冠
第二章 教師として監督として
第三章 勝つために何をしたか
エピローグ
 
第二章は僕が何回も読み返す章である。志波先生本人が高校時代スランプに陥った時の逸話はとても素晴らしい。高校時代の恩師、藤井先生はサッカー部の監督であり、三年間担任だった先生である。練習が始まる前に職員室へ行ってサッカー部を辞める話をする。恩師の藤井先生が言葉をかけた。
 
「別にサッカーが嫌いになったわけではあるまい。どうや。誰にでもそういう壁にぶつかる時がある。スランプはおまえだけにあるわけではないから、あまり思い悩むな。それから、おまえは頑張ればいい選手になる。それだけの力はある。まず自信を持て。おまえだけが苦しんでいるわけではない。もっともっと辛い思いをしたり、厳しい目に会って、それを乗り越えたやつもいっぱいおる。ゲームの時と同じだと思わんか。おまえが苦しい時は味方も苦しい。ましてや相手も苦しい。その苦しさを乗りこえられるかどうかで勝ち負けがきまる。乗りこえられれば、自信もつく」。
 
日体大卒業後、志波先生は東福岡の教師となった。今でこそ、300人も在籍するサッカー部である。しかしこの本が出版された当時は130人。監督になった数年後には厳しい練習のため11人になった時もあった。初めて選手権に出場する2年前には1年生が大量に辞めてしまい、残ったのは4人だった。そしてこの4人が3年生の時に選手権初出場する。
 
1979年、第58回大会に東福岡は初出場する。初戦で愛知と対戦し敗退(韮高はこの年に準決勝で愛知を倒し、決勝で帝京に負けて準優勝)。
1980年、第59回大会に2年連続で出場するが、岡崎城西に初戦敗退(韮高はこの年は古河一に準決勝で負け、3位)。
 
これから12年間、東福岡は選手権に姿を見せることがなかった。「なぜ勝てない」志和先生の自問自答の日々が続いた。「思い出すとその当時は、それは来る日も来る日も悩み続けていた。なぜ勝てない?その答えを探しつづけた12年と言っていいかもしれない」と語っている。そしてようやく、1993年、72回大会では、13年ぶりの出場でベスト4。この大会のベスト4は清商、鹿実、国見、東福岡であった。東福岡は国見戦で、戦後最多失点記録0-8を樹立した。ここから東福岡の知名度は全国区になっていった。この辺りは本書に詳しく書いてある。
 
創部1970年、志波先生の東福岡赴任は1972年。現在の部員は320人。選手権優勝は1997・98・2015年、インターハイは1997・2014・15年。東福岡サッカー部の歴史は志和先生の半生と言っても過言ではない。九州の小嶺先生、松沢先生という大先輩に刺激されながら、志和先生は自らを成長させ、チームを強くしていった。現在は、名将の仲間入りを果たした志和先生を目標に、若い世代の指導者が追いつき、追い越そうと努力している。
一読に値する本である。