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『清水サッカー物語』 無敵の少年サッカー発祥の地

9月サッカー本
 
『清水サッカー物語』 無敵の少年サッカー発祥の地

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著 者 高部務
発行所 株式会社 静岡新聞社
2016年8月8日発行 
 
先月の『サッカー批評』と一緒に購入した本である。強烈な本である。おそらく2016年のベスト本である。著者は以前紹介した中田英寿本と同一で、山梨県出身のライター高部さんである。
 
僕のサッカー人生は必然的に静岡・清水のサッカーと深く関わりを持っている。したがってこの本を読むことは自らのサッカー人生を振り返ることにもなる。良い意味で昔の事を思いだし、そして未来に向かって身を引き締めなければならない読後感があった。
 
1982年、日本サッカー協会が公認する6種全ての大会で静岡県のチームが優勝を成し遂げた。清水FC(全日本少年大会)、観山中学(全国中学生大会)、清水東(高校選手権)、静岡県選抜(島根国体少年の部)、清水第八スポーツクラブ(全日本女子選手権)、ヤマハ発動機天皇杯)。
サッカー王国と呼ぶにふさわしい。
 
1993年、アメリカワールドカップアジア最終予選、有名な「ドーハの悲劇」。22人のメンバーに清水で育った長谷川健太、大榎克巳、堀池巧、大武直人、澤登正朗、武田修が揃った。静岡出身の三浦知良三浦泰年中山雅史と8人もの静岡の選手がいた。
 
1998年、フランスワールドカップの22名の中には、相馬直樹、斎藤俊秀、平野孝服部年宏伊東輝悦の5人は清水FC出身である。それに加え、小野伸二名波浩川口能活は清水商出身、中山雅史藤枝東森島寛晃は東海一出身であり10名もの小さい頃からの一緒にプレーしてきた仲間が揃っていた。
 
堀田先生の「指導者の役目は、日の丸を背負う選手と優秀な指導者を一人でも多く育てることである」とう思いが実現されている。「サッカー王国清水」である。
清水市には23の少年団があり、その全てのスポーツ少年団からJリーガーが育っている。著者が言うとおり、「清水のサッカー人には清水熱がある」。
 
第3話の「草サッカー誕生記」は興味深く読んだ。1986年「第1回清水カ
ップ全国少年草サッカー大会」が開催された。この大会は今も続いている。参加チームは256チーム。大会の立案、運営の裏側が面白い。
 
256チームを8チームのリーグ戦で16チームを1つのリーグ戦にすれば、32会場が必要になる。5日間の試合数は1025試合となる。1会場に3人1組の審判員×2と記録員2人1組×2で、審判員192人、記録員128人。5日間の延べ人数は審判員と記録員合わせて1580人。これは今も変わらず市内の高校生が審判、中学生が記録員となっている。清水東のサッカー部生徒がテント下で参考書を広げている姿は風物詩となっている。
 
大会舞台裏はまだある。保護者、選手で1チーム30人の宿泊人数とすると256チームで7000人以上が4泊で28000泊である。昼間の弁当、交通手段、洗濯など様々な経済効果がある。お土産、飲食を含めざっと2億5千万円ものお金が清水に落ちることになる。サッカーによる経済効果には驚くばかりである。小学生に加え、中・高と大会を春、夏、秋、冬と開催すれば、大きな経済活性化になる。
 
僕にとっては素晴らしく良い本なので長くなるけれど、第2話「清水の申し子」も読むに価する章である。わずか30ページほどの文章である。しかし全文を引用したいくらいである。その中でも清水東高の監督、勝澤要先生の言葉は、時代が移り変わっても色あせてはいない。
 
「人は変われる。ぎりぎりまで自分を追い詰め、内部改革すれば大きく変貌できる。そして周りの人間にも好影響を与えることができる」
 
「大切なことは技術でも戦術でも体力でも精神力でもない。人間性そのものが勝負の原点だ。選手の人間性を鍛え磨かなければ勝負にも勝てないだろう」
 
「選手の気持ちはボールに乗り移る。正しい心を持つ選手にはボールも味方する」
 
 
かなり脱線したい気持があるけれど、いい加減、長くなりすぎるので、またの機会に綴りたい。
以前、勝澤先生の本を「サッカー本」で紹介した。

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