ニラニスタ発・蹴球思案処

蹴辞逍遥・晴蹴雨蹴

『エーコーとサッカー』

5月のサッカー本。
新年度は何かとがやがやしていていたので、あっという間に4月が過ぎ去ってしまった。4月のサッカー本にする予定であった本を、5月のサッカー本とする。
 
エーコーとサッカー』

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著 者 ピーター・P・トリフォナス
訳 者 富山佳夫

発行所 岩波書店
2004年3月26日発行
 
この本のタイトル『エーコとサッカー』のエーコが2016年2月に死去した。イタリアの記号学ウンベルト・エーコは、僕が学生時代に『薔薇の名前』という小説を出した。その処女作が衝撃的でそれ以来、エーコの難解な小説を読むことになった。そして個人的に記号論に興味を持っていたので、エーコの影響もあってさらに記号論を勉強することになった。だからエーコは僕自身の思考の幅を広げてくれた大切な作家である。
 
この本は岩波書店の「ポストモダンとの出会い」シリーズ全17冊の中の1冊である。サッカーと結びつけて記号論を展開する文章が難解ではありすぎるけれど、またそれが心地よい。
 
本文より~
それでは「サッカー」という記号は何を意味するのだろうか。何を約束するのだろうか。文化の中で、何を実現しているのだろうか。
 
 
サッカーにおけるアイデンティティというのは「実在する」ものでも、経験的なものでもなく、サッカーという文化のカーニバルの内側で互いのアイデンティティを効果的に際立たせる方法なのであって、そこでは通常の倫理やモラルの境界線は、自分があるチームに根をおろし、ファンとしてサポートしていることを示すために、棚上げされるのだ。
 
記号論的な読み方をすれば、本に書かれている言葉は、その意味が分からなくても意味を持つ。言い方を変えれば、本に書かれた言葉は、その意味が分からないことに意味を持つ。
サッカーそのものに息詰まる時、サッカーを離れるのではなく、サッカーを多角的視野から再アプローチする事が良いのではないかと思う。サッカーにおける文化的側面、サッカーにおけるイデオロギー、この本の内容であるサッカーにおけるポストモダニズムなど、サッカーと直接、関わりがないようであるけれど、関わりは薄くはない。
 
「韮崎」という記号、「ニラサキ」という記号、「NIRASAKI」という記号はそれぞれ異なる。それに「サッカー」という記号をプラスすると、我々に何を喚起させ、どのような意味作用をもたらすのか。スポーツ文化が国の成り立ちを変えるように、韮崎の街もサッカーによって良くも悪くも変わる。
社会が成熟するにつれて、「豊かさ」を表現する動詞は「have」(持つ)から「be」(在る)に変わっていくという。韮崎高校サッカー部が我々の住む町に古くから「在る」ということ。その意味をこの本を読んで考えることも、必要なのかもしれない。